2013年6月17日月曜日
外山滋比古「自分史作法」を読む
今日の読書録は外山滋比古「自分史作法」。
「自分史」というものに少々関心があって、自分も書いてみたいものだ、と思ってきたのでこの題名に目が引かれた。
著者はまず問う、「自分史は誰に向けて書かれるのか」と。
ここが一番のポイントで、書かれたものである以上、「読者がいるはず」だ。
「自分以外に読者を想定するなら、その読者に読んでみようという気持ちを持ってもらわないといけない」。
そのための工夫が以下縷々語られる。
何よりも「読者の心をとらえる面白い自伝」を目指さなければならない。
自分史とは「自分を主人公とするショートヒストリー、自画像の創作」である。
まず、自分のどういうところを書き、書かないか。よく、自分の足元を見て、「時間的に近いところはなるべく避けて、若いとき、幼いときを書く」のがよい、と言う。
その上で、「読者に配慮して、長くなるのを自制して、簡潔に」書く。
「自慢話は短く、なるべく避け」なさいと勧められる。
「失敗、苦しみ、不幸は読まれる」と言う辛辣な言明がそのあとに続く。
そして、「触れられたくないところを敢て披露し、言いたくてむずむずするところは抑える」と教えられる。
わかり易いという点では、「写真による自伝もよろしい」。
書きあぐんだら、「全体のうち、書きやすいところから順序にこだわらずに」書けばよいのであって、「自分に合った筆記具で、とにかく書くこと」が肝要である。
しかし「原稿用紙は避けたい。使うなら200字詰め」で、「書きほぐしの紙の裏」などに書くのも著者の経験ではうまくいった、と言う。
書き上げたら「雑誌を作る。分載する」、「本にする。メッセージを添えて謹呈する」などすればなかなか楽しい。
しかし、その前にまず、「面白い自分史をじっくりと読みなさい」と述べて、以下の四つを見本にあげる。
菊池寛「半自叙伝」
田辺聖子「楽天少女通ります」
正岡子規「仰臥漫録」
内田百閒「戦後日記」
自筆年譜を作るのもお勧めで、こちらの見本は松本昭「人間吉川英治」という書物に載っている吉川英治の自筆年譜。
独りよがりにならず、読者の眼という客観的な視点から、自分という存在をよく見つめ、ユーモアを持って言葉に表すことの大切さを説いていて、なるほどと首肯させられた。
外山滋比古「自分史作法」(チクマ秀版社 2000年)
(2013年6月17日記)
2013年6月14日金曜日
芥川也寸志「赤穂浪士のテーマ」
少し前に、NHKBSの「クラシック倶楽部」という番組で芥川也寸志の特集があった。
冒頭に「赤穂浪士のテーマ」が演奏され、昭和39年に長谷川一夫主演で放送されたNHKの大河ドラマ「赤穂浪士」を懐かしく思い出しながら聴いていたが、途中で「あれっ、どこかで聴いたような音楽だな」と急に気になってきた。しばらくしてから「ああ、これはラヴェルのボレロではないか」と気がついた。
「タッターッタ タラタラタン」という単純なリズムが少しづつメロディを変えながら刻まれて行き、最後のところで突然大きく転調して急停止する、という形はボレロとまさに瓜二つ。そういえばメロディもよく似ている。双子のようなたいへんよく似た作品、という気がして、もっと言えば、パクリに近いような印象を受けた。
ちなみにネット上ではどう見られているのか。
調べてみると、ボレロとよく似ているという指摘がずいぶん多かった。それで以前からそういう風に見られていたことを知ったのだが、昔このドラマを見ていた時はもちろん、今になるまで全然そのことに気づかなかった。それがこの番組のお陰で自分としては50年近くも過ぎてから思わぬ発見ができたわけで、その日は一日中このことばかり面白がって過ごしてしまった。 (20130506記)
2013年6月12日水曜日
エラリー・クイーン「Xの悲劇」を読む
エラリー・クイーンの探偵小説「Xの悲劇」(1933年刊)を角川文庫で再読した。訳者は越前敏弥。
初読はもう40年も昔のことで、手元にあるその時の鮎川信夫訳(創元推理文庫)は1968年の16版である。越前訳はなかなかキレがあつて、滑らかに心地よい気分で読むことができた。活字が大きいのも助かる。
冒頭のニューヨーク市電の中での殺人の場面がぼんやりと記憶に残つているだけで、その後の筋は殆ど忘れていた。そうか、こんな複雑な内容だつたのか、と読後改めて驚いてしまつた。
3つの殺人が行われ、ドルリー・レーンという60歳になる老シエイクスピア俳優がそれらの解決を図るのだが、手がかりはすべて作中に提出されていて、成程言われてみれば、という鮮やかなものばかりである。論理的な推理に従つて真相が順次明らかになつてゆく、その運びがもたらしてくれる独特の酩酊感に浸ること、それが本格探偵小説を読む楽しみであるならば、それは十分に満たされて、今も猶その酔いが回つている。
ただ、第1と第2の殺人での手袋の処理や死体の損壊の仕方には少し気になるところがあり、そこで用いられている方法では犯人のリスクが相当大きいはずで、結果的にうまくいつたことになつているが、ここは話の運びがやや無理気味であると思う。
なお、名探偵ドルリー・レーンの人物描写には、いかにもアメリカ人作者らしく大仰な英雄賛美趣味が溢れているが、ごく素直に受け止めて読み流した。また、女性第一のお国柄にもかかわらず、女性の登場人物については総じて辛口の扱いが多いが、これは果たしてどういうわけなのであろうか。
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