2014年8月14日木曜日

「サンティアゴ巡礼記2012」の仕上げ


ここ数日やっていたブログの「サンティアゴ巡礼記2012」の仕上げが今日終わった。同じブログの「巡礼日記」をネタに、老人会の月ごとの会報に掲載してきた18回分の原稿を1本にしてまとめたものである。この巡礼記の末尾に今回老生は以下のような文章を添えた。

 - 老生にとって巡礼の旅とは「ただ歩くこと」でありました。800キロの徒歩の果てにあったものは、信仰でもなく成就でもなく感激でもありませんでした。あったのは「何もなかった」ということだけでした。辿り着いた先にあったのは再び同じ日常の反復であり、「双六はかくてまた振り出しに戻った」のであります -

もともと、信仰の旅でなく、これまでの長い勤め人生活と平々凡々たる日常から解放されて、ただ只管、外国の見知らぬ土地で独りになってみたい、というのが動機であったから、旅が終わったからといって何かが変わるわけでもなく、再び元の暮らしに戻っていくしかないのである。ただ旅に出る前と違うのは、800キロの道程を28日間、只管歩き続けたこと、そのことをこうして記録に書き、周りの人たちに吹聴できるようになったことで、もしかするとそれが元来の目的であったかもしれない。

旅で何度か一緒になったカトリック信者でソウル近郊に住むCさんは、ある日の夕食の席で、「国へ戻ったら、同じ年頃の仲間たちに、オレは巡礼路を踏破して来たんだぜ、と自慢したいんですよ」と言っていた。また、ピレネー山中で出会った日本人のカトリック信者Hさんは、「罪の許しをカトリック教会から得るために、10年に一度はこうして参るんですよ、教会からの勧めでね」と言っていた。

信者の思いの一端をこのように語ってくれたCさんやHさんをはじめ、世界中からやって来るカトリックの巡礼者にとって、信仰と巡礼の関わりあいはどのようなものなのだろうか。今回の旅で最も大きな関心のひとつであったこの問いを、とうとう誰に尋ねることもなく、その答えを得ることもできないで終わったが、それはこの関心が結局知の問いであって信の問いではなく、自分にとってさほど切実なものではなかったからだろう。

信仰との結びつきを持たない老生には、この旅は、朝に宿を立ち、30キロ近くの徒歩ののち、再び宿で眠ることの繰り返しであって、ただ只管歩くことが全てであり、自分を惹きつける魅力に溢れた異国の人々や風物の中にわが心と肉体をどっぷりと浸したい、という官能的な欲望に促されての行だったのである。その欲望が老生にとってもしかして神(超越性)への信の根になりうるものかもしれないとしても、およそ、カトリックの信者と只今の信行を共にすることのできない老生が、キリスト者のために拓かれたこの路を再び歩くことはまずないだろう。巡礼路は真の巡礼者のものであって、さなきものが濫りに入り込むことは控えねばならない、と思う故である。
                                                (2014年8月14日記)

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