5歳から大学に入るまで暮らした狭い家の前には、小道をはさんで小さな菜園があり、いちじくや山椒の木が植わっていて、母が野菜を育てていた。その向こうは空き地になっていて、土手の上を電車の線路が通り、遮断機の降りる踏切があった。その踏切を渡って老生は毎日、近くの小学校へ通った。
ある日のこと、その空き地にバラック小屋が建ち、見知らぬ男たちが出入し始め、そして、二十歳くらいの若い女と小さな男の子が二人、彼らの両親とともに生活するようになった。彼らが話している言葉は、周りの人たちとは少し違って聞こえたが、それは彼らは朝鮮人だったからだ。
男の子は、兄がヨンス、弟がカンスという名で呼ばれていた。ヨンスは色白で小柄、細身、少し内気だが、頭の良さと気の激しさを感じさせた。カンスは大柄で、茫洋とした雰囲気があり、左足はびっこで、左の側頭部の一角が割れて丸い瘤になっていて、そこへ脳味噌が毀れているといわれていた。二人とは、学校が引けてから近所の子供たちと一緒に路上や空き地で、石蹴り、縄跳び、ビー玉、鬼ごっこなどして仲良く遊んだが、二人が朝鮮の人で、ほかの仲間たちとは違うのだという漠然とした意識が子供心にもあった。
ある日のこと、夜もふけてみんな寝静まっていた家の前が急に明るくなり、ゴーっという音がして、火事や、という声が聞こえた。飛び起きて玄関の戸を開け、父母と一緒に外へ出ると、目の前には紅の火炎が激しく立ち上がり、火の粉が頭上を舞っていた。ああ、うちの家も焼けてしまう、しかし、今はとにかく、逃げるほかない、祖父、祖母、父母、兄弟3人てんでに家の裏側へ走り込んで、火がおさまるのを待った。祖母は枕を両手に抱えて震え、腰を抜かしていた。
バラックが焼け落ちたあと、男たちはいなくなり、彼ら一家の姿も見えなくなった。どこか別の街へ移って行き、またバラックを建てて暮らし始めているのだろうか。その時以来、二度と彼らと顔を合わすこともなく今日に至っているが、元気ならば彼らもよき爺さん婆さんになっているはずだ。あの頭に傷を抱えていたカンスは無事に生きていけただろうか。苦労したのではないだろうか。ヨンスは大学へいったろうか、どういう職業に就いたろうか、姉さんはどこへお嫁に行ったろうか。
親や近所の人たちが彼らと決して親しくしようとしないことから、飯場稼業で生計を立てていた朝鮮人一家に対する差別と偏見があることを、子供心にもどことなく感じることがあった。身体障害と差別という二重のハンディを持って生まれたカンス、しかし素直で気のいいカンスのことを、あれから60年近く過ぎて懐かしく思い浮かべることがあるが、その時老生は、生まれながらに厳しい人生を強いられる人がいるという、どうしようもない世の不公平に思い至って、ついつい憮然としてしまうのだ。
(2014年8月11日記)
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