平成8年に75歳で他界した父は、大東亜戦争で中国へ出征し、亡くなる直前、「どこで負傷したのか」という老生の問いに、「昭和19年8月4日、湖南省衡陽県ガクショウというところで手榴弾の破片を受けて負傷した」と答えた。
高等小学校を終えて、地元の造船所へ職工として勤めていた父は、二度に亘って招集を受け、中国大陸で数年間、兵隊として暮らした。敗戦時はいわゆるポツダム軍曹だったから、兵隊としては優秀な部類に属したといえよう。
父は生前、具体的な戦争の体験を息子3人に語ることは殆どなかったが、老生がまだ小学校低学年の頃、敵の機銃掃射を受けて逃げ惑った話を寝床の中で父から聞き、しばらくは夢の中にその場面が出てきて、恐怖に震えたことを思い出す。ただ、父は、ほかの兵隊と違って自分は卑しい行動は絶対にとらなかったとよく言っていたことを覚えている。
父は戦闘中の負傷で体内に手榴弾の破片が残り、左顎の下の首の肉がそがれて陥没し、左目の視力が落ち、左半身は汗のかき方が少なかった。しかし、傷痍軍人の認定は受けていなかったので、定年退職後、厚生省へ認定を申請しようとして、戦傷の記録を県の援護課へ出向いて探したが見つからず、諦めたことがある。
その父が亡くなって15年ほどたってから、父の書棚に残された数少ない書物の中に、昭和58年発刊の読売新聞大阪社会部編「中国慰霊」という本があるのに気づいた。普段、殆ど書物を手にとることがなかった父がわざわざ買い求めた本なので、おそらく自分の戦争体験に関わりのあることが書かれているにちがいないと思い、中身に目を通したところ、まさに父が負傷した衡陽で、戦闘に参加し、生き残った元兵隊たちが、戦死した戦友の慰霊のためにこの地を訪れたレポートを記者が綴ったものだった。父はこの地で負傷し、そのあと上海の病院へ転送されたと言っていたので、一命をとりとめて、復員することができたのだ。
母の話では、父は生前、中国へは行こうとはせず、親しい友達に誘われても決して出かけようとはしなかったという。しかし、この本を買って読んでいるところを見ると、妻にも息子たちにも何も語らなかったが、父なりにいろいろと思いがあったのだろう。
この本のあとがきに登場する、当時の黒田清社会部長はあとがきの末尾に次のように書いている。
「この編に収めたのは、新聞記者が軍部に屈服したあと、中国本土で繰りひろげられた戦闘のひとつ「湘桂作戦」である。と言っても、もちろん戦記ではない。昭和19年、日本軍は36万余の将兵をこの作戦に動員したが、戦死、戦病死は10万と伝えられる。昭和57年春、元兵士や遺族13人の慰霊の旅に記者二人が同行した。そこは日本軍が攻め入った”敵地”である。食料の徴発、苦力狩り、殺人、放火・・・。10万人の生命を失ってなお、そこでは日本は加害者なのだ。慰霊はひそやかに行われた。」
読売新聞大阪社会部編 「中国慰霊」 読売新聞社 昭和58年刊
(2014年8月1日記)
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