2013年10月29日火曜日

原節子と「白痴」


 数多の日本映画の女優のなかで原節子と高峰秀子は抜きん出て素晴らしい。
 この二人の映画を見ることができたのは、わが人生の幸福に欠かせないものだったと思っている。
 
 その一人、原節子の魅力が最もよく発揮されている作品は何か、といえば、それは「白痴」だと思う。黒澤明がドストエフスキの原作に拠って1951年に発表した「白痴」で、那須妙子を演じたのが最高だ。

 もともと彫が深く目鼻立ちのはっきりした容貌と骨太の体つきは日本人離れしていて、世上人気のある小津安二郎の「東京物語」や「晩春」に登場する和風の清純な役柄より、この「白痴」に見られるようなバタくさい「運命の女」を、暗い表情の「悪女」風に演じる方が大いに似合っていると思う。

 台詞回しをさらに鍛えてもらって、例えばラシーヌの悲劇や三島由紀夫の「サド侯爵夫人」に登場する原節子の姿を見てみたかったものだ。

 黒澤の「白痴」は4時間半近い上映時間を松竹の意向で3時間弱にカットされて公開され、キネマ旬報ベストテンにも入らず、あまり評判になっていないが、後年のどの黒澤作品より芸術家黒澤の客気溢れた意気込みを感じさせてくれる大作である。どこかでこのカットされる前のオリジナルの映像を見ることができないものだろうか。


                                           (2013年10月29日記)

2013年10月27日日曜日

ブニュエルの映画を見る

 
 昨日の土曜日、いつものとおり自転車で1時間走って大学図書館へ行き、視聴覚室でDVD映画を1本見た。

 メキシコシティの貧民屈に住む人々を描いたルイス・ブニュエル監督「忘れられた人々」という作品である。

 最近、四方田犬彦氏が作品社から上梓された「ルイス・ブニュエル」を紐解きながら、この視聴覚室にあるブニュエルの作品を製作順に見ることを計画していて、これが第4作目になる。

 1950年に作られた上映時間は77分のこの白黒映画は、暴力と殺人と幻想性に溢れた素晴らしい映像の力を持っていて、カンヌ映画祭で監督賞を受賞しているのもむべなるかなと思われた。

 昔見た作品も含めてブニュエルの映画を引き続き丁寧に見て、感想がまとまれば後日ここに書いてみたい。

                             
                                             (2013年10月27日記)

 
 

2013年10月23日水曜日

スペインの歩行者優先


 街中の信号のない横断歩道の手前で立ち停まっていると、走ってきた車が停車したので、軽く会釈して歩道へ踏み出しその前を通り過ぎると、車はまた動き出してさっと走り去っていった。

 去年、スペインの巡礼路を歩いた時の経験である。
 
 パンプローナ、ブルゴス、レオンなど大きな街では車の行き来も多く、信号のない横断歩道も多い。そういう場所で立ち停まっていると、必ず車が停まり、自分が先に行くというが再々あった。

 日本では、こんな場合、停車する車は殆どなく、躊躇なく走り過ぎてゆく。

 スペインでは法規上こうするように決められているのだろうか、それとも運転者のマナーとして広く定着している習慣なのか。あるいは歩行者一般にではなく巡礼者に限っての対応なのだろうか。

 また歩行者に対して決してクラクションを鳴らさない。日本では警告というより威嚇するようなクラクションの音に驚くことがよくあるけれど、巡礼路800kmを歩いて一度もクラクションを浴びせられたことはなかった。

 これも法令上、禁じられているからなのか、マナーとして定着しているからなのか。

 どなたか、ご存知の方はいないだろうか。

 いずれにしても、嬉しくなって、スペインの運転手はいい人ばかりだなと、思ったものだった。


                                               (2013年10月22日記)
 

2013年10月21日月曜日

昔読んだ本 ヘッセ「デミアン」


 中学2年生の時、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」を読んだ。
 そして直ちにこの作品の世界に非常に強烈な力で引きずり込まれた。
 登場人物はすべて実在していると感じられた。
  
 エミール・シンクレール少年は私だった。孤独な音楽家ピストリウスは年長の先輩だった。ベアトリーチェの肖像を自ら拙い筆で描きもした。エヴァ夫人は憧れの大母であり、アプラクサスはわが神だった。そしてデミアンは私のすべてだった。
  
 その後数年はこの作品の世界に浸って毎日を生きていた。今でも、この作品の隅々まではっきりと思い浮かべることができる。そこには、今ではもう漠としてはいるが、当時の様々な思いの感触が絡み付いている。

 少年時代から思春期に入る頃の、得体の知れない内部の力の不気味な蠢きを目に見えるものとして表現してくれたのが、この作品だった。「ペーター・カメンツィント」や「車輪の下」も同じ頃に読んだと思うけれど、さしたる鮮明な記憶は残っていない。「デミアン」だけが圧倒的だった。思春期の魂の再誕を叙情的なリアリズムではなく、夢のような象徴の世界の出来事として強烈な実在感を持って表現されているからだと思う。

 これほど強く作品とともに生きていたという読書の体験は「デミアン」以外にはその後一度もなかった。文学と内面への旅への決定的な誘いとなったという意味でもこれは自分にとって生涯唯一の作品である。

 のちに画家・エセイストとして世に出た宮迫千鶴さんと高校時代に文通していたことがある。きっかけは彼女の愛読書が「デミアン」であると、彼女の知人から聞いたことからだった。のちに広島の自宅近くまで出かけて行き、居酒屋のようなところで彼女と「デミアン」や太宰治について語り合ったことがあった。彼女は惜しくも数年前に亡くなったが、同い年なのに年上の姉さんという雰囲気で、独立心に富み、その豊かな才気は当時から際立って感ぜられた。

 「デミアン」はその彼女の思い出にも繋がっている。


  ヘルマン・ヘッセ「デミアン」 高橋健二訳 新潮文庫

                       
                                               (2013年10月21日記)

2013年10月19日土曜日

プルースト「失われた時を求めて」と高遠弘美訳


  M. Proust「À la recherche du temps perdu」を読み続けて3年近くなる。

 起床後の1~2時間、コーヒーを飲み終えると、電子辞書と井上究一郎訳を傍らに置いて数ページづつ読み続け、ついに最終巻「Le temps retrouvé」に入った。

 プレイヤード新版による Quarto Gallimard本の2130ページからで、残すところ270ページ。

 フランス語を独学で学び始めたのはもう50歳を過ぎていたから、一向に上達しないが、それでも、ほぼ毎朝本を開いて、ここまで続けて来られたことにわれながら驚いている。

 邦訳は上記の井上訳以外にも多数あってこの作品の日本での評価の高さが伺える。鈴木道彦訳や保刈瑞穂訳(部分訳)、旧いところでは五来達訳(部分訳)、淀野・井上等訳などがあり、最近では、岩波文庫で吉川一義訳、光文社古典新訳文庫で高遠弘美訳が刊行中である。

 これらの訳を拾い読みしてみた中で、高遠弘美氏の訳がプルーストの文章の持つ独特の味わいを最もよく日本語に移しているように思われて、刊行されるとすぐに買い求めている。まだ第3巻までしか出ていないが、予定されている全14巻の最後までつきあうつもりでいる。
 
 高遠氏は現在パリでこのたいへんな長丁場の仕事に専念されているようだが、続巻を待ち望んでいる読者も多いと思うので、是非とも最終巻までやり遂げていただきたいと願っている。
 

                   (2013年10月19日記)

2013年10月18日金曜日

囲碁名人戦


 昨日行われた第38期囲碁名人戦第5局は挑戦者の井山五冠が山下名人を下し、4勝1敗で名人位を奪取して幕を閉じた。
 
 第1局は山下名人の快勝。2局目は井山五冠がお返しをして、第3局、小生でも気がついていた切断の味を井山五冠が見損じて逆転されたが、山下名人のコウ立ての手がダメ詰まりを招いて失着となり、再逆転で井山五冠が勝った。これが大きな分かれ目となって流れが傾いた。最終の第5局も名人が終盤、模様を大きくまとめて逆転し勝勢となったが、その後の見事な追い込みでこれも井山五冠が再逆転で勝った。井山五冠の強さと勝運が際立ったシリーズだった。

 5局すべてをニコニコ動画で観戦させてもらった。1日目は時々覗き、2日目は午後から終局まで張り付いて見た。

 第4局の解説で三村九段が、小生の目にはどうやっても活きそうにないと見えた井山五冠の大石を、「プロなら死ぬことはないとすぐわかる」と言っていたが、そのとおり見事にしのいで勝った。「強くなると攻めよりしのぎのほうが楽で、攻める場合はあらゆる可能性を読まなければならないが、しのぐときには一つ見つければよいからだ」という言葉も、実感としてわかるというのではないが、印象に残った。

 最終局も誰もが井山五冠の負けを予想していたが、とても手のなさそうに見えるところへ打って、相手の模様に進入して活きてしまった。観戦していてその凄さに目を瞠ってしまった。

 井山五冠は形勢有利でも不利でも殆ど態度に出ない。ひと目で千手という読みの力で、常に盤面に集中して最強の手を求めると言われる。その様子を逐一画面で見ることができて、ネットのありがたさを痛感した名人戦だった。


                                              (2013年10月18日記)





2013年10月17日木曜日

最近読んだ本


○石井宏「西洋音楽から見たニッポン」 PHP研究所 2007年刊


 著者は1930年生まれのクラシック音楽評論家。
 本書は雑誌「Voice」に連載した文章に手を入れ、エピローグ1篇を書き加えたもの。
 
 著者によれば、西洋音楽の基礎はビート(リズム)であり、邦楽の基礎はビートではなく日本人独特の自然観に根ざした平たい織地である。耳が基本的に違う。だから、音楽も当然違うのだ。
 
 定型詩である俳句は五・七・五の17音からなるが、日本語は2音で1拍という特性を持つので、それに休符(×)を加えて、4・4・4拍のリズムになるという。
 ーふる・いけ・や・×(4拍) かは・ず・とび・こむ(4拍) みず・の・おと・×(4拍)ー という具合。

 この4拍子のリズムが日本語特有の五・七調、七・五調など定型の調べのベースにあり、中世の歌謡、親鸞の和讃を初め、民謡、唱歌、歌謡曲にまで深く浸透していて、日本人の音楽的快感の基礎を作ってきた。

 さらに、明治になると、2音1拍によって漢字2字単語を造り西欧文化を翻訳吸収して現代日本語が形成されてきた。

 しかし、近年、これら大衆の歌における七・五調の崩壊と音楽における旋律の崩壊が同時期に発生し、さらに横文字によるリズムの崩れが目立つ。その結果 美しい日本語の調べの崩れが憂慮されるにいたっている。
 
 明治以降、西洋音楽一辺倒でやってきたものの、それだけでは日本人の心に音楽が育たない、と著者は考え、西洋とは音楽的感性を異にする日本人の心性に根ざした、音楽におけるナショナルなものを取り戻そうと主張する。 しかし、ここではその処方箋はまだ書かれていない。

 本書の主題は能の謡や囃子などにも大いに関連するところがあり、教えられ点が多い。
 しかし、永年、西洋のクラシック音楽の分野で仕事をしてきた人の言葉と思えば、何を今さらという気がしないでもない。日本人の耳、つまりは自分の耳には、やはり西洋音楽に心底からはなじめないなという告白に過ぎないのでは・・・(それはそれで共感と同情を覚えるけれども)と、少々半畳を入れたくなるのは不謹慎だろうか。

 新たに加えられたエピローグ1篇は山本七平風の彼我の比較文化論で、西洋人と相渉るに当たっての外交の要諦を説く。



○岡井隆「森鴎外の「うた日記」」 書肆山田 2012年刊


 現代日本で最も高名な歌人が、鴎外の日露戦争従軍記「うた日記」について、すべてを読み、検討を重ねた経過を綴ったもの。
 歌詩「未来」に2009年6月から2011年5月まで24回に亘って掲載された。

 検討の末に著者が得た結論は
 「うた日記」は文語による定型詩で韻律に重点が置かれ、意味の明確さや物語性は劣る。文語詩から口語詩への過渡期の橋を渡っていたという偶然が、当時余り高い評価を得さしめなかった。今、その形式にこだわらず読めば、佳品も不出来なものもあり、また耳に快く響くものもあろう。自分は逐一作品に当たってそれを味わった。そして鴎外の歌は<意味>よりも<調べ>に沿って読み取っていかなければならない」というものだった。ここには歌人として最も大事にせねばならぬものが何であるかについて著者の思いが洩らされている。

 読者としては、この後、著者の思いを腹に入れつつ自ら紐解いて、自分の眼と耳で「うた日記」をじっくりと読んで味わうことが求められている。


                                               (2013年10月17日記)




2013年10月16日水曜日

ハーモニカ


 昨今のハーモニカの人気はどうなのだろう。
上はクロマチックハーモニカ、下は複音ハーモニカ

 昨日、アマチュアのギター倶楽部の皆さんの演奏を聴きながら、昔吹いていたハーモニカのことを思い浮かべていた。
 
 小学校3・4年生ごろ、器楽合奏倶楽部というのがあって、そこで毎日ハーモニカを吹いていたことがあった。

 ハーモニカのほかにも木琴、鉄琴、タンバリン、カスタネット、トライアングル、小太鼓、太鼓などがあり、Mという熱心な先生が指導してくださって、放課後は毎日のように音楽室で練習したように思う。面白いことにこの先生は学級担任で、音楽教諭は別にいたように思う。

 部員は30人近くいただろうか。

 毎日小学生器楽合奏コンクールという大会に出て、なかなか指導がよろしいと先生が褒められたこともあった。

 その時の演奏曲はスーザの「士官候補生」とビゼーの「スパニッシュセレナーデ」。今でもそらで吹くことができる。ビゼーやラベル、スペイン音楽への好みはこの時に作られたと思っている。
 
 当時、使っていたハーモニカはヤマハ製で、通常のC調の上にもう1本、ピアノの黒鍵に当たる音が出せる「シャープ」というのを乗せて両手に持ち、上下を交互に口に当てて吹き替える。こうすると転調できるのでクラシックのかなりの曲を演奏することが可能になる。

 この吹き穴が上下に2個ある複音のハーモニカは、口一杯に咥えて舌先を吹き穴に当て「バッバッバ」という低音で伴奏を付けることができるのが利点で、現在の単音のクロマチックハーモニカだと、ピストンで半音の切り替えを行うように作られていて、1本で演奏することができるのは長所だが、口一杯に咥えると音がうまく出ないのでこのベースの音は出せない。去年亡くなった俳優の小沢昭一もハモニカ少年で、この伴奏付き演奏を大変うまく聴かせていた。

 この時の練習のお陰で、耳で覚えている曲は今でもたいていハーモニカで吹けるのだが、楽譜の読み方を教えられなかったので、譜面を見ると頭の中で音が鳴るという具合にはいかない。
 
 その後、小学校高学年、中学生になって倶楽部から離れてしまい、楽器を持つことがなくなってしまったのは、今思えば残念なことをしたと思う。ハーモニカ以外にも例えばギターなどやればよかったのにと思う。しかし、楽器はひとりで練習するだけでは無理で、よい先生がいて、みんなと一緒にやるという環境が大切なので、果してうまくできるようになったかどうか。
 
 今ではすっかり吹く機会がなくなってしまったハーモニカであるが、チャンスがあればまた演奏してみたいものだと思う。
 
 どなたか身近に一緒にやってやろうという同好の士はおられないだろうか。


                                             (2013年10月16日記)

2013年10月14日月曜日

「邯鄲」の地頭をつとめた


 昨日の日曜日、謡の会で「邯鄲」の地頭をつとめた。
 過去に一度能を見て、一度謡ったことがあるだけの曲なので、うまくやれるか心配だったが、みなさんきちんとついてきてくださって、無事役目を果たせた。
 ただ、やはり力のある人は先に走ろうとする傾向があって、ペースを乱されることがままあったのは遺憾なことだった。
 このほかに、「草子洗小町」のワキ、「小袖曽我」「定家」の地謡をつとめた。


                                               (2013年10月14日記)

2013年10月11日金曜日

句会に出席


 昨日は老人会の句会に出席した。
 定例会は毎月第1木曜日だか、今月は都合により第2木曜日に変更された。
 出席者は8名(女5、男3)。
 お昼の弁当とビールが出たので、歓談しながらいただいたあと、句会が始まった。
 各人3句出句し、4句選んだ。

 結果は以下の通り

  5名選句
   筆洗ふ墨の濃淡いわし雲
 
  3名選句
   秋夕焼西の窓より燃え落ちぬ
   すすきのほ又すすきのほ峠道(拙選)
   松茸がほんの一切れ土瓶むし
  
  2名選句
   赤とんぼ昔遊びの声運ぶ
   薪能面悲しくゆらぎをり
   名月や猪口の内でも餅をつき
   蒜山の三座に帽子秋浅し
 
  1名選句
   秋空に湧く白雲の足速し
   医通ひに旅を取り消し秋憎む
   柿栗と実りて今年も年かさね
   お部屋まで甘い香りの金木犀
   天高し人語に動く犬の耳(拙選)
   戻り来しおしゃれの案山子解かれをり(拙選)
   名月をひとりじめしてしみじみと(拙選)
   燃えそめしいつもの畦に曼珠沙華
   天高し田を這うやうに稲を刈り
   若夫婦肩寄せ合掌地蔵盆(拙句)

  選外となった拙句
   なになにと鳴く鳥の名は何鳥屋師
   湯上りや木犀香る寺の裏


 お弁当はおいしかったが、拙句のほうは今月もいまひとつの出来だった。

昼の弁当とおやつ


                                                (2013年10月11日記)
   


スペイン サンティアゴ巡礼記2012


       ―旅立ちや桜舞ふ日に南蛮へ―

年をとると巡礼への関心が高まり四国や西国の寺社を巡って納経にいそしむ人が多くなる。外国にも同じような習俗があって、最も有名なのがカトリックの三大聖地巡礼である。その一つ、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラを訪ねようと思ったのがもう30年も前のこと、昨年春に退職してすぐに出かけた。
 

サンテイアゴ・デ・コンポステラの巡礼路
目的地サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペイン北西部ガリシア州の町、カトリックの大聖堂があって世界中から巡礼者が訪れる古来からの聖地である。道中にはパンプローナ、ブルゴス、レオンなど有名な都市もあり、観光ルートとしても資源に富んでいる。

 国内ではなくなぜスペインなのかといえば、旅の経費があまりかからないからである。今回1ヶ月の旅で交通、食事、宿泊など総額で20万円に満たなかった。おそらく四国巡礼の経費より少ないのではないか。

さて、季節は春、桜舞う4月、カタールのドーハ経由でパリへ飛び、ボルドで一泊したあとピレネ山脈北麓のサン・ジャン・ピエ・ド・ポーに着いた。砲台跡の残る高台と山麓の狭間に家並みが広がり、春雨に濡れて静かに佇んでいた。
サン・ジャン・ピエ・ド・ポー駅

ここを起点に約800Kmの旅が始まる。途中1500m級の山越えが4箇所あり、徒歩でおよそ1ヶ月を要する。通称「フランス人の道」と呼ばれていて、大半の巡礼者がこの道を行く。

まず宿の向かいにある案内所へ行き、クレデンシャル」と呼ばれる折り畳式の巡礼手帳を貰った(2€)。先々の教会や宿などでこの手帳にスタンプを捺して貰い最終地で確認を受けると巡礼路完歩の証明が出るのである。

 宿では地元フランスのほか、スペイン、オランダ、アイルランド、アメリカ、カナダ、韓国などから老若男女20名余りが集まって、中庭で食卓を囲み晩餐を共にした。めいめいが自己紹介、それを女主人が英仏西語を巧みに操ってみんなに伝える。日本人は極めて珍しいので「稀人来たり、乾杯を」と突然命ぜられて咄嗟に英語が出ず、「われわれのよき旅のために乾杯」と大声で叫んで凌いだ。ところがこの日本語が喝采を享けたのである。また、この宿にはボランティアで働いている人たちが数人いた。自ら巡礼を果たしたあと、期間を定めて奉仕のために遠く異国から来ているのである。

消灯時刻の午後10時、2段ベッドが2台並ぶ狭い部屋で、いよいよ旅が始まるという興奮の冷めやらぬまま眠りに就いた。明日はピレネー越え。切に好天を願う。  
     

 
 ―八時間歩みて長きピレネ越ゆ巡礼の道けふ踏み出しぬ

 翌日のピレネ越えは晴天となった。宿の人に「Buen Camino(よき道を)」と送り出されて8時前に出発。9キロのリュックを背に杖1本で予定通りナポレオンが遠征した山岳ルートを行く。最初の10キロほどは登りで、同宿のオランダ人夫妻と同行。ゆっくりとペースを合わせてくれるので助かる。登りきると尾根沿いのなだらかな道になった。標高は1000mを超え緑の牧草地が広がっている。先行してゆく夫妻に遅れて、5キロ進んで古い石造りの十字架に到る(写真)。
石の十字架の前で

 ここを過ぎると木も生えない原野が続き、山の緑と空の青さだけに切り分けられた世界に入り込む。しかし間もなく森の木蔭が戻ってきて、申し訳程度の木の柵と1mほどの鉄の橋を渡って国境を越えた。またアップダウンのある吹きさらしの山道が続き、やがて標高1430mのレポエデール峠に着いた。眼下にスペインの大地が広がり、修道院の尖塔が見える。森の中の急坂を下って午後4時過ぎロンセスバージェス修道院に到着。出発から8時間半、25kmを歩いてかなりくたびれたが、天候にも恵まれ無事に修道院付属のアルベルゲに入った。

巡礼路の各村には必ずといってよいほど<アルベルゲ>という5~10€で泊まれる公営または私営の宿があり、二段ベッドに清潔なシーツと枕、シャワー、トイレが整備されている。自炊用のキッチンや洗濯機のあるところもある。非常にありがたい設備であり、お陰で世界中からやって来る多くの巡礼者が安価で旅をすることができる。このアルベルゲは100人以上収容できる大きなもの。まだ新しく清潔で、第1夜を静かに気持ちよく過ごすことができた。昨夜の宿で知り合った巡礼者たちも殆どここに泊まっている。

 同室には道中出会った日本人Hさん、スロバキアから来たMさんというどちらも40歳前後の若い人。二人ともカトリック信者だが、クリスチャンならざる者が巡礼路を歩くということに関しては、スポーツの一種として見ていて排除はしない。夜のミサにも一緒に参列したが、神父の前で行う聖体拝領はさすがに遠慮したほうがよいと言われ、自席に留まって見届けるだけにした。しかし、受付で巡礼の動機を尋ねられた時は、一瞬躊躇したが「宗教上のもの」と答えた。私の場合は信仰を求めるというよりも、クリスチャン文化への関心からであるが、広義にreligiousといえるのではないかと考えて、そう返答したのである。では明日からの旅の平安を祈って眠ろう。




  -牛追ひの如くに駆けて来たる人巡礼の道示して去りぬ-

次の日は海抜950mにあるロンセスバージェス修道院からピレネー西麓をパンプローナへと向かった。

 夜明けすぐに宿を出たが、天気はあいにく小雨で道はぬかるんだ。清流アルガ河に沿って、牧場、野原、林間を通る緩やかな下りの山道を行く。河沿いには数キロごとに小さな集落があり、この地方独特の白壁に赤屋根の民家が軒を連ねている。この辺りはバスク地方の中心部で、若きヘミングウェイが小説「日はまた昇る」で描いているように、友人と鱒釣りに興じたところだし、古くはシャルルマーニュ大帝のスペイン遠征の合戦地となったところである(叙事詩「ローランの歌」)。この日は28Km歩いて、途中のララソアーニャという小村で一夜を過ご
パンプローナの隣街トリニダッド・デ・アレ
し、翌日、青空の下、トリダッド・デ・アレを経て、昼にパンプローナに到着した。

 この街はナヴァーラ州の州都で人口20万人の大きな都会。毎年7月に行われる牛追い祭り「サンフェルミン祭」で夙にその名を世界中に知られている。日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会士ザビエルがこの地の王族の出身で、街から車で1時間のところに「ハビエル城」として今も一族の居城が残っている。その様子は司馬遼太郎「南蛮のみち」に詳しい。

 パンプローナの街角に立って観光案内所でもらった地図を広げて眺めていると、大きな手提げ鞄を持った元気のいい中年の男性が足早に笑顔で近づいて来て、「どこの国からですか?私も以前巡礼をしたことがあります」と言いながら、通りや広場をいくつか通り抜けて数百メートルも先の目抜き通りまで案内してくれた。そして「ここをまっすぐ行けば街から出られます。Buen Camino!」と、大きく手を振ってまた足早に去って行った。このように、道中、巡礼者に人々は必ず「Buen Camino!」と言葉をかけてくる。「よい道中を」という挨拶言葉だが、そこには巡礼者に対する暖かい励ましを感ずる。さらに言えば巡礼者を見る目にはそこはかとない敬意すら浮かんでいるような気がする。これは今回歩いて見て身に沁みて感じたことで、人々の心の中に巡礼への思いやカトリック信仰が今も根強く生きているようだ。

 路上に埋め込まれた帆立貝のマークや、家壁、樹木等に記された黄色い矢印を、時々見失いつつもなんとかたどりながら街を出て、この日は20Km歩いて隣の村シスル・メノールの私営の宿に宿泊した。夕食は近くのレストランで巡礼メニュー(10)を頼んだが、パエリャ、豚フィレのソテー、アイスクリーム、パン、ワインがとてもおいしくて、さすが美食の地バスクだと感じ入った。



  -風車立つ坂を登りしわれもまた憂ひ顔の老騎士ならずや-

旅も4日目。この日は南仏からの巡礼路との合流地である23km先の街プエンテ・デ・ラ・レイナ(王妃の橋)を目指した。
エウナテのサンタ・マリア教会

 前夜は隣のベッドで大鼾をかかれたため寝不足気味。この先も何度か大鼾に悩まされたが、周りは閉口しているのに本人は目が覚めないのが不思議である。


 曇り空の下、麦畑に囲まれた道を行き、発電用の風車が立ち並ぶ急な山道を登って、2時間ほどでペルドン峠(標高780m)を越えた。前方にはナヴァーラ平野の麦畑と森が広がっている。石がゴロゴロして足場の悪い坂を下り切ると、しばし巡礼路から離れてエウナテのサンタ・マリア教会を目指した。降り始めた雨は次第に雨脚を早め、着いた時には本降りになっていた。この教会は12世紀中葉に建てられた巡礼者の救護院の礼拝堂で、エルサレムの聖墳墓教会と同じ八角形の姿をしたロマネスク建築である。狭い身廊の中に鎮座するマリア像を拝し、小やみになった雨の中をオバノスの村へ向かう。ちょうどお昼時の村祭りの最中だったので、大勢の村人に混じってワインとサンドイッチを振舞ってもらった。


 プエンタ・デ・ラ・レイナの街の入口にある宿に着いたのは14時半。初日の宿で一緒になったアイリッシュの3人と同室になり、抱き合って再会を喜びあい、夕食をともにしたが、女性二人は休暇が切れるので明日帰国、男性Vさんも3日後に戻るという。時間が取れない人はこういう風に行程をいくつかに分割して後日またその先を歩くのは四国霊場などでもよく見られることだが、同行者が早々と消えるというのは取り残されたようで寂しい。


 翌5日目の朝、11世紀半ばにこの地の王妃が巡礼者のために建設した6つのアーチのある優美な石橋を渡り、州道沿いのブドウやオリーブの畑に囲まれた田舎道へ出た。曇り空から次第に日差しが漏れはじめ青空が広がってきた。中空に浮かぶような丘の上の村シラウキを過ぎて、アップダウンを繰り返しながらエステージャへ向かい、23km歩いて14時に宿へ着いた。ここでもVさんと一緒になり、街の案内所お薦めの「HORNO SAN MIGUEL」というレストランで杯を交わした(ここのメニューは道中最も美味だった)。

 街には中央を流れる清流エガ川沿いに12・3世紀に建てられたナヴァーラ王宮や教会が残っていて、静かで落ち着いた佇まいが印象に残った。 



  -大空に高き半弧の虹ありてリオハぶどうの畑に架かれり-
 
トレス・デル・リオの聖墳墓教会
 6日目は小雨の中を夜明け前にエステージャを出た。緩やかなアップダウンの道を行き、ロス・アルコスで昼食後、陽がさしてきた道を歩き続けて、夕方、28km先のトレス・デル・リオに到着。ここにも12世紀に建てられた八角形の聖墳墓教会があった。

 一昨日の宿で同室だったフランス人Hとその友人のスペイン人Sに街中で偶然出会い、夕食を共にして歓談した。Hは40半ば、カルフールの財務部門に勤務、子息が大学受験でたいへんらしい。フランスでは珍しい姓で長身痩躯。聞けば北方のヴァイキングの系統で、ヴァイキングの欧州進出のあらましを話してくれた。ゴマ塩頭で丸顔のSはダリの絵やブニュエルの映画に詳しく、「僕の名はダリと同じ」とニャっと笑った。

 次の日も夜明け前に出て18km先のログローニョへ向かった。名だたるリオハワインの産地で、かつてボルドーの葡萄が病気で大打撃を受けたときに代替地として開発されて以来、スペイン最大のワイン産地となっている。朝日を受けて虹の架かる葡萄畑の中を通り抜けて昼前に宿に到着。道中最初の日曜日なので午後は休養し、タパス(一品料理)街でHと飲んだ。

 ところで、熊野古道とは姉妹道の関係にあるこの巡礼路を知ったのは、作家小川国夫氏が書いた案内書を30年余り前に読んだことによる。当時は巡礼者も少なかったが、1993年に世界遺産に登録されてから次第に増えて、今では年間10万人に達する。伝説ではイエスの弟子の一人ヤコブの遺骸が813年にサンティアゴで発見され、それを記念して墓の上に大聖堂が建てられた。10世紀初めにはすでに巡礼が行われていた記録があり、当時イベリア半島を占拠していたイスラム勢力に対するキリスト教国の失地回復の戦い(レコンキスタ)の最前線であって、ヤコブは国の守護聖人として崇められた。欧州各地との交通路ともなり、ロマネスク様式の教会や修道院が多く建設され、12世紀には年間50万人の巡礼者があったという。以来、今日まで巡礼者は絶える事がない。




  -人寄れば先を争ふ心あり旅人競ひて野道駆けゆく-

 旅も8日目になった。しかし目的地までまだ600kmある。途中でへたばらないよう怪我と病気は御法度。必ずマイペースで歩き、足場の悪いところでは転倒しないよう要注意。4日目あたりで便秘が解消したと思ったら、足に豆が次々とできだした。毎日宿へ着くと直ちに針で水抜きして消毒。これが10日ほど続いた。
リオハワインのぶどう畑

さて、早朝ログローニョの街を出ると、ぶどう畑が延々と続いた。棚と灌水施設がきちんと整備されていて、水は小さな運河から汲み上げている。途中、2箇所のバルで休憩を取りながら、夕方、ナヘラに到着。アルベルゲで巡礼証明のスタンプをもらい、さらに歩いて次の村アソフラで宿をとった。

この宿は珍しく2人部屋で、マドリッドから来たというMというピカソを小さくしたような丸刈りのスペイン人と同室になり、スペイン語のあいさつや自己紹介の仕方などを手ほどきしてもらった。御年70歳。「靴の調子が悪くてね」と言いながらとても俊足だ。ログローニョの宿で言葉を交わした韓国人Cさんも泊まっていたので夕食後少し歓談。カトリック信徒のCさんは化学関係の企業のOBで日本にも勤務したことがあり、日本語がとても堪能、今はソウルの近くで孫のお守に明け暮れする毎日という。

 翌朝、宿を出ると後ろから日本語が聞こえてきた。同期入社仲間という男3人組で、一番若い人がこの春無事定年退職したのを記念して巡礼を志したという。この先のブルゴスまで一緒に歩いたが、一番若い人が一眼レフのシャッタを切りながらどんどん先へ行って一休み、そのあとを二人がえっちら追いかけて、追いついたと思ったらまた一眼レフが先へ行く。それを繰り返して進んでいく。この一眼レフ氏は「鉄砲玉」というあだ名だそうだ。

この日は寒くて途中で霰が降る中、10時にサントドミンゴデラカルサーダに着いて大聖堂を見学。この街は巡礼のための石畳の道、橋、救護施設などの建設に生涯を捧げた「聖ドミンゴ」を記念して開かれ、巡礼路の名所として広く知られている。街中で先を急ぐCさんと出くわして、その後を追うように歩いていくと後ろから3人組が追いかけて来た。こうなるとマイペースはものかは競争気分が生じて、先行する人影を見失うまい、後ろから追いつかれまいとしてピッチが上がる。折からの強風できつい歩行となり、夕方ベロラドの宿に着いた時には息も絶え絶えになっていた。前日は34km、この日は38kmという強行軍だった。

     


 -茫々たる果てなきメセタただひとり歩み続ける巡礼の道-

10日目の朝、ベロラドの宿を発つと巡礼路第二の難所という<オカの山越え>が控えていた。野道を吹きつけるとてつもなく強い風に行く手をはばまれながらも次第に山道に入り、昼過ぎにようやく標高1165mのペドラハ峠に到着した。立ち並んでいるフランコ時代の虐殺の犠牲者のモニュメントに合掌し、山を下った。この日は27km歩いてアヘスという小さな村で泊。
ブルゴスの城跡から見る大聖堂の背面と街並み
翌朝、宿を出たところで、ばったり出くわした名古屋の三人組と一緒にエル・シドの物語で名高いブルゴスへ向かった。道中23kmのうち8kmは三人組に誘われて郊外バスに乗ったので昼には宿に着。先着していた韓国人Cさん、三人組と共に大聖堂前のレストランに入りビールで乾杯、昼食を取りながら思う存分雑談を楽しんだあと、午後は、大聖堂を見学、三人組のひとり「鉄砲玉」さんと快晴に恵まれた街中を散策し、城跡のある背後の小高い丘に登って街を一望しながら記念写真を撮った。

宿に戻ると妙齢の日本人女性が二人いて、どちらも一人旅という。大阪からというOさんは、道中、何度かその名前を耳にしたことがあり、ざっくばらん元気たっぷりオオサカのおばちゃんという感じ(おっと失礼!)。一方、勤め先を退職して旅に出たというKさんは華奢で藤村志保に似た大和撫子。夕食のあと、三人組はドイツ人の若い女性と一緒に談話室で寛いでいたKさんを捕まえて喋りこむので、やむなく末席に連なって消灯時間までおつきあい。Kさんはピレネを一緒になった外国人の男とハイペースで歩いたため足を傷めたらしく、ついにダウン、しばらくこの街に留まるという。大和撫子にマイペースで歩くことの大切さをつい忘れさせてしまったその外国人にいささか敵意を覚えたのはわれながらびっくり。外国旅に出ると人は突如ナショナリストになるようである。


<メセタの大地>が始まる
 次の日は39kmというロングランで、遅発ちという三人組と別れて先に宿を出て、昼前からいよいよ<メセタの大地>に入った。360度見渡す限り地平線の彼方まで野原で、その中を赤茶けた土の道が一筋延びている。巡礼者の姿は殆ど見えず、満天は厚い雲に覆われ所々に青空が顔を出している。遥かに遠い行く手を眺めてただひたすらひとりで歩き続けるが、歩いても歩いても野原が続いていて風景には変化がない。休みなく歩き続けて、サン・アントンの修道院跡を通り抜け、丘の上に聳える村カストロヘリスに入り、もう村を出ようかというあたりにある宿に着いたのはもう18時を過ぎていた。
                       
 
  
  -喋ること余りに速しヤンキーの言葉の苦労知らざる娘-

カストロへリスの宿では体育館のような広間に敷かれたマットと毛布のお陰で久しぶりに手足を十分伸ばして寝ることができた。脱水機があったので洗濯物の乾きも早く、食料も近くの商店で手に入った。こういう使い勝手のよさは前任のオスピタレイロ(管理者)が日本人だったせいかもしれない。日本からテレビ局が取材に来たこともあるという。

波を立てて流れるカスティージャ運河
翌12日目は丘を一つ越えてまたメセタの大地を延々と歩き、昼にはカスティージャ運河に達した。強い風で水面には波が立ち岸辺の草が激しく揺れている。運河沿いに小1時間行き、フロミスタの街に入って教会を訪ねたが生憎入口は閉まっていた。小雨がパラ突き出したので先を急ぎ、この日は39km歩いて18時半にビジャカサール・デ・シルガの宿に着いた。

麦畑を貫いて延びる巡礼道
翌朝はまだ暗いうちに出発。最初の街カリオン・ロス・コンデスでは広場に日本では見かけない超特大のトラクターや自動車が展示されていて、中にスズキの軽四が1台あったのはご愛敬だった。街を抜けると麦畑の中に一本の並木道が17kmも伸びている。空は青く暖かい絶好のウォーキング日和で、32km歩いて16時にテンプラリオスに到着し、賄いつきの私営の宿に泊まった。

隣のベッドはプエルトリコから来たという70歳の会社社長氏。食事はレンズ豆のスープ(いい味)、ビーフステーキとプリン。同じ食卓にアメリカ人の若い女性がいたが、あまりの早口の英語についていけず、そそくさとベッドに戻って足の豆のケアをした。肩も痛い、右足の土踏まずにも痛みがある。

 次の日は出発してすぐにオーストラリア人男性Eさん(66歳)と一緒になった。航空機のボーイング社のOBで、日本に来たことがあり、息子が3年大阪に暮らしたあと、日本人の細君を娶ったとのこと。「Youが昨夜の夕食をすぐに切り上げたのは、あのアメリカ娘の早口のせいだね、Youも外国で暮らせばすぐ慣れるのだが・・・」と鋭く見抜く。Eさんは俊足なので最初の村で先に行ってもらったが、そのあとすぐに名前から、大和撫子Kさんが一緒に歩いて足を痛めた相手だと気がついて、その人当りのよさが印象に残った。




   -異国人共に集ひて食ひ歌ふ楽しき今宵巡礼の宿-
 
レオン修道会が運営するベルシアノスのアルベルゲ
 豪州人Eさんと別れ、県境を越えてレオン県へ入ると残りは300km余。

 昼にサーグンの街で食料とワインを買い、小1時間ほど過ぎたところで猛烈な向かい風が吹き出した。ベルシアノスの宿まであと4kmだが風に圧されて普段の半分も進めない。坂道では圧し戻されないように後ろ向きになって尻から登り、2時間の牛歩の末、ヨレヨレになって何とか到着。ここはレオン修道会運営の宿で、オスピタレイラ(管理人)のLさんはカナダ人、金髪で鶴のように細い女性、お年は70位とお見受けした。Lさんもこんなに強い風は初めてだという。建物の外に干されている洗濯物がすべて横一文字になっている。木々の少ないなだらかな丘陵地がどこまでも続いてこの風を地平線の向こうまで運ぶのだ。成程、スペインに風車が多いのも宣なるかな。


部屋には二段ベッドがぎっしり
 ワインとチーズとパンで昼をとり、洗濯を済ましたあと、寝袋に包まって1時間余り横になったら風で冷えた体も温まり気持ちよくなった。

 夕食は19時半から。材料は宿が提供し調理は巡礼者が行うのがここの慣わしで、キッチンでは女性の巡礼者が下ごしらえに大童。隣の食堂には40人余りが揃い、3割がスペイン人、7割が異国の巡礼者で、隣合わせたフランス人夫妻は年毎に分割して歩いていて、今回は昨年の終点ブルゴスからスタートしてサンティアゴを目指している。野菜サラダ、肉団子・ジャガイモ・人参・トマトの煮込み、パン、赤ワインの夕食をいただいたあと、賄い役のAさんという初老のスペイン人男
手作りの夕食をみんなでいただく
性の司会でお国自慢になり、地元スペインにイギリス、ポーランド、カナダなど、歌ありダンスありで大いに盛り上がった。珍しく日本から来たというので指名を受け、謡曲「高砂」の千秋楽を床に正座して独吟、盛んな拍手を受けたのもよき思い出になった。宿代はドナティボ(寄付)だが、実質は修道会の無料奉仕で、かような暖かいもてなしを頂戴した。
Muchas Gracias 感謝!                                                                     

                                   -眼に見えぬ導きの手に牽かれ聴くさらに歩めと呼ぶ声するを-

ベルシアノスの宿でレオン修道会のお世話になった一夜が明け、翌日は晴れ渡った青空の下、7時半に出発、なだらかな道を26km歩いてコウノトリが教会の屋根に棲んでいる街マンシージャ・デ・ラス・ムラスに泊。

  次の日は23km歩き、昼にはレオンに着いて宿に入ると、日本語が達者なあの韓国人Cさんの姿があった。早速、観光案内所で貰った絵葉書に、無事レオン到着の旨を記して自宅へ郵送(切手代0.9ユーロ)したあと、小雨降る中、百貨店「コルトイングレ」へ行って、バンドエイドとワインなどを買い、紐で代用していたリュックの肩ベルトを胸前で締め合わせるバックルを手に入れた。これで肩の負担もだいぶ楽になりそうで一安心。実は朝方、この紐が見当たらないので、困ったなと思いながら靴置場へ行くと、置き忘れていたのか、誰かが置いてくれたのか、棚の隅にぶら下がっていた。「さらに歩き続けよ」との啓示のような気がしてこれにはずいぶんと元気づけられた。
レオン大聖堂の参会者
 
 宿へ戻って一眠りすると、もう雨はやんでいて、濡れた石畳の街路をひとりで散歩しながら博物館と大聖堂を見学。夕食はさんとすぐ近くのレストランでとったが、「いや、実に不味かったなあ」、ともに愚痴りながら宿へ戻ってベッドで横になった。

  翌日起床するとさんはすでに出発したらしく姿が見えない。しかしその素早さに感心ばかりはしておられず、すぐに食堂へ行って太腿の傷を手入れしなければならなかった。どこでやられたのか定かではないのだが、両腿に十数箇所虫刺されの跡があり、そのいくつかが膿みを持ち始めていた。ガーゼと消毒薬を手に食堂の隅の椅子に坐って針で突こうとしたら、隣に腰をおろした若い女性が「ナースです」と言って傷口を見てくれた。「ここじゃだめですよ」と宿の人に叱られて、出発の準備に大童の大部屋の一角へ行き、ナースが持参の抗生物質を塗り、バンドエイドを貼って「応急措置ですから早く医者に見せたほうがいい」と言う。「道中で病院を探します、ありがとう」と礼を述べて朝食をとり、ようやく8時に宿を出たが、外は薄曇、気温4.5度、4月も下旬なのに吐く息が白い。しかしお陰で足の方はあまり気にせずに歩けそうである。




         -ありがたや女人の恵み慈悲心西も東も変はらざりけり-

第18日目のレオンの朝、足の応急治療を終えて、ベルネスガ川に架かる橋を渡り旧市街を出て少し行くと、線路を越えてゆるやかな上り坂になり、その先は放牧地や畑の広がる国道沿いの緩やかな起伏がずっと続いた。この日の距離は34Km。残り250Kmでちょうど全行程の2/3を過ぎた辺りだ。

 歩き続けて8時間余、村の入口に架かる長い石橋を渡って、オス

オスピタル・デ・オルピコ村の長い石橋
ピタル・デ・オルビゴの宿に16時半到着。村中を貫く巡礼路に面した平屋で中庭が広い。玄関横の薄暗い部屋に入ってしばらく待つと、黒縁の眼鏡をかけた女学生風の小柄な東洋人の女性(コリアン)が現れて受付の手続をすました。「虫に刺されたので医者にかかりたい」と言うと、「生憎この村にはいないがアストルガにAmbulatorio(診療所)があるので見てもらえるでしょう」と、所在地を書いたメモをくれ、「この部屋は人が多いので、こちらへどうぞ」と隣の自分のベッドのある部屋へ案内してくれた。奥の方で女性が一人背を丸めて眠っていたので、音をたてないように荷物を降ろし、スーパーへ行って食料を買い込み、食堂で夕食をとった。モンペリエから来たフランス人夫妻、カナダのケベックからの男性、イスラエルからの若者らが食事を終えて出ていったあと、やって来た若い女性の3人組と挨拶を交わすと、朝方レオンの宿で手当てしてくれたナースとその仲間だった。「明日医者に見てもらえそうです」 「それはよかった。私はポーランド人で、ワルシャワに住んでいる。父はyouと同い年」と言う。ひととき歓談して部屋へ戻るとみんなもう寝息をたてていた。

 翌朝6時半、音をたてないように荷物を整え、7時50分出発。小雨がぱらついているが風はない。小高い丘へと登って行き、その先はアップダウンのあるかなりきつい道が続いた。2時間余でコロンバ山の石の十字架を過ぎると眼下にはアストルガの街が広がっていた。          



   -女医さんが虫に代はりて「ごめんなさい」-

「アンビュラトリオ?」と通りすがりの人に何度も尋ねながらアストルガの街中へ続く坂道を登り、城壁の裏側の大通りへ出て少し行くと二階建ての診療所が見えた。受付で白衣の女性に事情を話すと、パスポートの提示を求められ、出された書類に記入、サインして診察室の前の長椅子に坐って順番を待つこと2時間余、診察室へ呼び入れられた。ドクターは若い女医さんで、両太もも10数ヶ所の刺し跡を見せて「宿舎で虫に刺された」と言うと、きゅっと眉を顰めて「sorry」、消毒薬を塗って「薬局で薬を買って塗るように」と処方箋を書いてくれた。その薬は日本で開発されたものと言う。診察を終えて受付へ行くと、先ほどの白衣の女性が笑顔で立ち上がり、「料金はいくら?」と尋ねると「とんでもない」という表情で手を左右に振った。「Muchas Gracias!」「Buen Camino!」。巡礼者の診察は無料と聞いていたとおりだった。

城壁の向うに見えるガウディ司教館
 診療所を出て城壁の中を通り抜けガウディ司教館の前の広場へ出て、ベンチでビスケットと水の昼食をとり、隣のベンチの3人連れの少女たちに路を尋ねると、手に持った街の地図をくれた。それを頼りにこの街のアルベルゲを訪ね、スタンプをもらったあと、シェスタ(午睡の時間)までに薬局へと思い、通りがかりの男性に声をかけると、わざわざ店の前まで案内してくれた。軟膏(5.6€)を買って傷口に塗ったあと、教会の前で写真を撮り、街を離れたのは15時。青かった空模様が小雨交じりになる中、目指す村サンタ・カタリーナまでまだ10kmほどある。途中、村を2つ通り過ぎて17時15分にようやく到着。

 道を挟んでほぼ向かい合っている2軒の宿屋はいずれも私営。最初に入った方で料金を聞いてから出て行こうとすると、受付の若い男が突如怖い形相になって睨みつけてくる。それで慌てて向かいの方へ飛び込んだのだが、料金はこちらも同じで6¢だった。巡礼者は10人ほど、夕食は食堂でデンマーク人N、英国南西端コンウォールから来た英国人の男と一緒にとった。Nは家具メーカーのデニスに勤めていて最近リタイアしたばかり、親戚に外交官がいると盛んに言う。英国人は<Eden Project>というのに携わっているとのこと。これはコンウォールにある観光植物園のことらしい。ワインを傾けながら長々と3人で歓談のあと、部屋に戻り「早く治れよ」と薬を傷口にしっかり塗り込んで、22時就寝。明日は標高1530mのイラゴ峠が待っている。                         




  -疲れ果てたどり着きたる宿で聴く大和の人の声のやさしさ-

  旅20日目の朝、出発から2時間半、ラバナルの村を過ぎると長くて急な登りの道が始まった。今日越える標高1530mイラゴ峠は道中三つ目の難所、大きなごろた石を踏んで登って行く。1時間半で麓のフォンセバドンに着いて昼食。この村は廃村だったが、近年、巡礼者のために宿やバルが建てられ休息の場となっている。登りで乱れた息を十分整えてさらに峠へ
鉄の十字架」の傍らに立つ
向かったが、途中で道を見失ってしまい、一旦村の近くまで戻ったところで昨夜宿で一緒だったデンマーク人Nとばったり。本道を見つけて貰って1時間余りで峠に着いた。積み上げられた小石の上に伸びる高さ10m余の「鉄の十字架」に手を触れて立つ。石は巡礼者が道中の無事を祈って置いていったもので、大きな塚になっている。

  峠からは舗装された緩やかな下りで、山上の広々とした景観を楽しみながら、マンハリンにある掘立小屋のような宿を通り過ぎると、再び石の多い長い坂を杖を頼りに下った。舗装された蛇行する州道と石の多い土道とが交互になって巡礼路は続いた。Nとは途中のバルで別れ、モリナセカを目指してさらに一頑張り。アップダウンの続く長い道を休まずに歩き続けて、モリナセカの村に入る7つのアーチを持つ中世の「巡礼者の橋」を渡り、18時半に宿に着いた。歩行距離は35km。村の出口の道脇、畑の中にある白い2階建の扉を開いて、口をきくのも辛いほどフラフラになりながら泊まりの手続きをした。料金7ユーロの設備のよい私営の宿にしては受付の親父は不愛想だった。四国霊場と提携しているようで、日本で作られたらしい霊場巡りの絵入りの暖簾が玄関ロビーのカウンターの上にぶら下がっていた。ロビーから2階へ上がろうとすると、突然日本語で声をかけられ、振り向くと、「Oと言います。日本の方に会えて嬉しいですね」、同年輩の男性の弾んだ声で、「どうです、夕食を一緒に」。疲れ切って足も痛いが、折角声をかけていただいたので承諾した。

  部屋に荷物を置き、すぐにシャワーを浴びて洗濯。部屋もシャワー室もゆったりと清潔で気持ちよいが、終日、石を踏んで長時間歩いたせいか足裏が随分痛い。とくに右足に強い痛みがある。一段落したので小雨の降り出す中、一緒に外へ出てまず食料品店へ。レジで店員の若い男が料金をごまかした(間違えた?)ので、抗議するとすぐに訂正したが、初めてのことでびっくり、急に村の印象が悪くなってしまった。レストランでOさんは饒舌だった。原発事故のあったすぐ近くのK市の人で60歳。電機会社を早期退職してこの旅に出たとのこと。宿へ戻り、食堂で日記を書いている間も、そばに坐ってお喋りが続いた。異国の旅では日本人に出会って日本語で喋ると、普段の緊張感が和らいで気持ちが少し昂ぶるように思う。人懐こいOさんも普段以上にお喋りになっているようだ。時間が来てベッドで横になったが、足の痛みが強いので明日からの歩行にいささか不安を覚える。




   -芽を吹きて畑に連なる黒枝の聖なる血潮与る夕餉-

 前日のイラゴ峠越えで痛めてしまった右足の裏を強く踏まないよう気をつけながら宿を出る。旅は21日目、第4コーナーに入った。2時間ほどでポンフェラーダを通過。白壁の建物が並ぶ大きくて立派で美しい街だ。日曜の朝のせいか人影が殆どない。街の中央には城跡があり、赤茶色の城壁の前の石段に腰をおろしボトルの水を飲む。

清流に架かる橋を渡って街はずれへ出るとほぼ平坦な道が続き、小さな集落をいくつか通り抜け、高速道路を越えた先はずっとぶどう畑が続いていて、縫うように道が延びている。空は青く晴れあがって暖かい。

14時少し前にカカベロスを通過。街中には人が大勢繰り出していて、朝方のポンフェラーダとは雰囲気がずいぶん違う。小川にかかる小さな橋を渡って街を出て、足を引きずりながら長い登り坂、ローマ時代の道を進む。午後の日差しがいっぱいに照りつけてかなり汗ばむ。次の小さな村ピエロスの宿に立ち寄ると、黒い丸ぶち眼鏡の小柄な若い日本人女性がテーブルに独り坐って即席ドリアを食べていた。ひと月前にピレネーの麓を発ったと言うからのんびり旅だ。「お元気で」とエールをもらって気力を奮う。

16時半、ビジャフランカ・デル・ビエルソに到着、教会横の私営の宿に入った(5€、朝夕食7)。この村のサンティアゴ教会は12~13世紀に造られたもので、病などで歩けなくなった巡礼者に聖地サンティアゴと同様の巡礼証明がここで与えられたという。今でも医師の診断書があればOKらしい。夕食の時間には30人ほどが広間に集り、出された料理をみんなで取り分け、おしゃべりしたり記念写真を撮る。こういう会食は巡礼者の交流を促し心が安らぐ。食後、ベッドに戻って足の裏に筋肉痛を抑える薬液を塗り入念に揉み解す。だが痛みは一向に治まらない。


村を流れる清流に泡が立つ
  翌22日目の朝は曇り空で無風。国道沿いの平坦な道を行くにつれて次第に樹々の緑に覆われ始めた。村を流れる清流には泡が立つ。途中でベルシアノスの宿で顔見知りになったフランス人カップルに出会った。夫君は少し前屈みになってびっこを引いている。細君はいつもどおりの軽快な足取り。「夫は足を痛めたんです・・・このあたりの風景、日本と似ているのでは?」「そっくりですね」。




   -峠越えガリシアへ下り行く道の木々の濃き色故里想ふ-

 先を行くフランス人カップルに遅れて歩くこと2時間余、痛む足の養生と翌日のセブレイロ峠越えに備えて昼過ぎに山間の村ベガ・デ・バルカルセで早めに宿に入った。村に2軒ある食料雑貨店でワインと食材を買い込み、宿の屋外キッチンでパスタの大盛りを作って例のフランス人カップルにもすすめたが、手持ちの即席ドリアを口にするだけでワインも飲まず質素なもの。食後、お互い痛めた足を電気ストーブの前に並べて3人で雑談、夫君は世界一の化粧品会社ロレアルのOBで水の研究をしていたと言い、ボルドーに近いベルジュラックに別荘を持っていて、年金は300万円余、「日本へ旅行したいが物価が高いらしいのでね・・・」、そのBという姓の前にはdeという貴族を示す文字があった。

 翌朝、「先に出ますよ」と声をかけると、昨夜は「自転車グループの若者たちがうるさくてよく眠れなかったわ」と細君がぼやいた。

 セブレイロ峠は海抜1300メートル、巡礼路最後の難所と言われ、ここを越えるといよいよ目的地の緑濃きガリシア州に入る。残雪が残る道を4時間半ひたすら登り続けてやがて峠にある9世紀に建てられた巡礼路最古の教会に着いた。神父さん自らスタンプを捺して下さり、拝観して外に出るとピクニックに来たらしい若者たちの群れが周りのショップにできていた。バルで休んでビールを飲んでいると、スペイン人の青年が二人、声をかけてきたので話してみると、ブルゴスで出
<巡礼者の像>の傍に立つ
会った日本人女性Kさんのことを「僕の恋人」と大のお気に入りである。適当に話を合わせて失敬し、木々に深く覆われた山道を下った。

 サン・ロケ峠では「巡礼者の像」の横でポーズをとり、その先は息が切れそうなきつい傾斜や牛の糞の散らばる所もあって往生しつつ、痛む足をびっこひきひき杖を頼りに歩き続けた。朝から32キロ、18時前にトリアカステラの宿に着いた時はもうフラフラで受付で腰を下ろしてしばらくは声が出ないほどだった。それでも小雨まじりの夕闇を縫って村中のレストランへ出かけ、特大のビーフステーキを頬張って何とか峠越えを果たした記念の乾杯を静かに独りであげた。「お疲れさん、ここまで来ればもう大丈夫!」 




     -病む足にぬかるみ優し木の芽雨-

巡礼路を牛の群れが大行進
  7時45分、トリアカステラの宿を出発。曇空で無風。村の出口で道は二手に分かれたが、前を行く人についてうっかり山道の方へ入ったのが間違いのもと、足に楽な平道の方へ思い切って引き返すべきだった。これがこの後の体力の消耗に繋がった。林間の小道は石の多いアップダウンの連続で、下りは特に痛む足にこたえる。杖一本だけが頼りだ。サン・シルへの長い登りを越え,標高1202mのメダ山脈の裾野の風景を左手に見ながら緩やかな坂を下る。放牧地では牛が草を食み、村の中を牛の群れが列をなして進んでいく。あたりには家畜糞の匂いが漂う。13時45分、人口1万3千の大きな街サリア着。足の具合がよくないので、ここで泊(泊5€)。

  洗濯し、シャワーを浴びて、一眠りしたあと、修道院の近くを散歩、スーパーで食材を買い、地下の穴倉のような部屋でワインの栓を開けて独りで夕食をとった。この夜は床暖房のおかげで暖かく、ぐっすりと眠れた。

  翌朝、床に置いておいた朝食のバゲットサンドは暖房に温められて、ホットドッグになっていた。さて、サリアからサンティアゴまでは114km。最短で巡礼証明書がもらえるスタート地としてここを選ぶ人も多い。出発後2時間ほどして雨が降り始めたのでポンチョを被り、濃い緑の樹々に包まれた細い山道を行く。曲がりくねった急な下り坂になると、痛む足には特にきついが、雨でぬかるんでいると土が柔らかくなるのでかえって楽だ。右足に体重がかからないよう着地点を慎重に選んで歩く。

  16時、街の下を流れるミーニョ川に架かる長い橋を渡ってポルトマリンに到着。殆ど口もきけないほど疲れきっていたので、ベッドに荷物を置くとそのまま倒れこんでしまった。それでも小1時間ほどたって少し元気が戻ったので、近くのスーパーで食材を買い込み、夕食をこしらえた。メニューは貝とトマトとピーマンのスープ、サラミ、バゲット、ヨーグルト、ビール。皿や包丁など調理器具が不十分で少々やりづらかったが、すべて平らげて満腹になった。体はぐったりだが食欲はしっかりだ。

  次の日は足の具合もだいぶよくなり、林間の道を抜けたあと、突然の雨でずぶ濡れになりながら、15時にはパラス・デ・レイの宿に着いた。しかし、疲れはひどく、一眠りした後も、人と話をするのがおっくうで、談話室のヒーターの傍で冷えた体を暖めながら、黙って簡単な夕食を済ましたあと、すぐベッドに潜り込んで眠り込んだ。
 
 

  -茹蛸にオリーブオイル唐辛子メリデ名物食ひて愉し-  
 
 27日目を迎えた。今朝も小雨がぱらついている。パラス・デ・レイの宿を6時45分に出発。ゴール
メリデ名物蛸料理
はもう目の前、右足がだいぶよくなったので、ピッチを上げよう。国道に沿い、まっすぐな道を1時間半ほど歩いてパンブレ川を越え、ラ・コルーニャ県へ入った。10時過ぎ、フレロス村の手前で激しいにわか雨が襲来。雨宿りも兼ねて村の小さな教会に入り、祈りを捧げ、独りで番をしていた娘さんからスタンプをもらった。小雨になったのを見計らってメリデへ向かい、15分ほどで到着。目抜き通りを進んで行くと、蛸料理店「Pulperia Ezequiel」の看板が見えてきた。

 この街の有名な名物料理は、オリーブオイルと唐辛子をかけた茹蛸。早速注文して一皿平らげたが、さほど恐れ入る味ではない。蛸酢の方が口に合う。名無しのワインを1本飲み干したが、全然酔わないのが不思議だ。パンもついて料金はセットで10€。食後、雨上がりの街中へ出て、さらに先へ急いだ。

 次の村ボエンテまで道はまっすぐで、村を抜け川を越えさらに登り坂を進んで行く。このあたりまで来ると松林がかなり眼につくようになる。カスタニエダの近くで道脇の小さな教会に参拝。ガリシア州に入ると民家かと紛うような小さな教会が処々に見られる。

 17時半、アルスアの宿(泊5€)に到着。スーパーで食材を買って簡単な食事を終えるとすぐにベッドで横になった。今朝辺りから風邪気味で、咳が出て疲れ方が今までになく激しい。シュラフに包まって目を瞑るが、周りの巡礼者たちの声が耳に響いてなかなか眠ることができない。すぐそばで老若女性二人のおしゃべりが延々と続いているのにとうとう辛抱できなくなって、怒鳴りつけてしまった。
「ここは休むところだ。話は別の部屋でやってくれ!」
「You are tired? Sorry...」
二人とも黙ってしまったので、なんとも後味が悪かった。
 就寝時刻になってようやく静かになり、やっと眠りに落ちたが、夜半には部屋の隅から聞こえてくる大きな鼾で何度も眠りを覚まされた。




      -聖地着双六かくて振り出しへ-

  7時半出発。曇り空。疲れが残っている。少し歩いてはリュックを降ろして肩の痛みをほぐす。今日で最後と、杖を頼りに歩き続ける。緩やかなアップダウンを繰り返しながら、緑豊かな林間の道を進み、小さな村を次々と通り過ぎた。昼は道端に腰を下ろして、ビスケットと水だけで済ます。

 午後に入ると、ガリシア州に入って以来初めて晴れ間が広がってきた。汗ばむが、とにかく前進あるのみ。ラバコージャの飛行場を横に見て村中を通り過ぎ、ユーカリと松の林の中を一目散に進む。サン・マルコスの村を抜けると、巡礼路最大の宿泊地モンテ・ド・ゴソの丘に到る長い登り坂が続いた。17時半、モンテ・ド・ゴソに到着。眼下にサンティアゴの街が広がっている。聖地を目の前にして、急遽、今夜ここで泊の予定を変更しそのまま目的地へ向かう坂を下った。

 30分ほどで市街地に入り、大聖堂を目指して大通りを行く。建物が混み合い、次第に道が狭くなって街の中心へ向かって行く。肩の痛みが強くなってきた。後ろに組んだ両手をリュックの底にあてて持ちあげ、少し前屈みになって歩く。もうあと僅かだ。路上のホタテマークを見落とさないよう要注意。顔見知りの巡礼者の姿が見えた。手を振っている。商店に囲まれた緩やかな坂道に入った。もう間もなくゴール。大聖堂の裏手の広場キンタナ広場が目の前に見えてきた。おや、微笑みながら、こちらへ向かってくる男がいる。あれは確かピレネ越えの時に一緒だったスロバキア人Mだ。「やあ、M!」と握手して奇遇を喜び合い、並んで大聖堂の正面のオブラドイロ広場へ向かう。Mは昨日到着、ちょうどこのあたりを散策していたところだという。

 19時10分、サンティアゴ大聖堂の正面にゴールイン。ついに目的の場所に着いた。

 通りすがりの人に大聖堂をバックにして二人並んだ記念写真のシャッターを切ってもらい、それから直ちに巡礼事務所へ行き、スタンプで一杯のクレデンシャルを示して「巡礼証明書」を貰った。旅は終わった。今はとにかく早く休みたい。

 このあと、Mと同じ宿に泊まり、風邪で咳き込みながら、翌日は大聖堂でミサに参列、翌々日は大西洋に面した巡礼終着の地フィステーラへバスで日帰り、3日目の朝、ポルトガル方面へバスで南下し、ポルト、コインブラ、リスボン、シントラ、スペインのトレド、マドリッドを10日ほどかけて散策ののち帰路に着いた。
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 老生にとって巡礼の旅とは「ただ歩くこと」でありました。28日間、800キロの徒歩の果てにあったものは、信仰でもなく成就でもなく感激でもありませんでした。あったのは「何もなかった」ということだけでした。辿り着いた先にあったのは再び同じ日常の反復であり、「双六はかくてまた振り出しに戻った」のであります。
                                                       (おわり)

今年のノーベル文学賞


 昨日、今年のノーベル文学賞受賞者は Alice Ann Munro と発表された。

 まったく知らない名前だったので、ネットで調べてみると、今年82歳になるカナダの女流作家、「短編の名手」、ルーツはスコットランドのエディンバラとある。

 短編は長編とはまったく異なったジャンルだ、と語っているらしい。

 邦訳も数点出ているようだが、オリジナルの英語で読んでみようと思って、処女作の「THE BEGGAR MAID」早速、明日、大学の図書館で借り出してくるつもりでいる。

 どのような味わいの短編なのか、Katherine Mansfieldのような繊細で感性豊かな作品なのか、O-Henryのような技巧派なのか、それともまったく別の・・・

 村上春樹は今年も選に漏れた。彼の人気は国際的で、私の経験でも、去年マドリッドの地下鉄の中で隣り合わせた若い女性は、ハードカバーの「1Q84」スペイン語訳を脇に抱えていたし、サンティアゴ巡礼で知り合った若い韓国人女性も愛読していると言っていた。

 文学は言葉からできていて、言葉は極めてローカルな、歴史の中で磨き上げられて来たものであるから、出来上がった作品も自ずから、地域性豊かで伝統的な言語感覚に溢れたものになるはずだ。優れた作品であればあるほどそうなるはずだと思う。

 そういう点で、村上春樹は国際的になるあまり、無国籍になっているという面はないだろうか。彼の作品をさほど読んでいるわけではないけれど、「ノルウェイの森」や「海辺のカフカ」などから受けた印象は、これは「日本」の文学ではないな、というものだった。

 あと一歩届かないということで、もうマスコミも数年前のように騒がなくなってきているのは、「日本文学」のためには結構なことだと思う。


                                               (2013年10月11日記)






2013年10月10日木曜日

入眠の姿勢


 眠りにつく時の姿勢には性格が現れるという説がある。眠りの姿勢には6つの型があって、性格の違いによって型が決まるというのである。

 子供のときから、右側を下にして海老のように体を折り曲げないと寝付けなかったが、中年になると、逆に左側を下にしてまっすぐ体を伸ばさないと寝付けなくなった。それが、最近では、仰向けになって大の字になって寝るようになっている。

 これは、性格が変化してきたせいだ、ということなのだろうか。

 確かに、神経質で怒りっぽく不安感の強かった若い頃と比べて、多少は世間に遠慮しなくなってきているが、人間の性格は根本的にはそう変わるものでもなさそうなので、他の理由があるのではないかと思ったりする。

 そもそも特定の姿勢をとらないと寝付けないということ事体、どう説明されるのだろうか。

 昨夜、めずらしく寝付けないまま、寝床のなかで目を閉じているうちに、こんなことを考えてしまった。

                                              (2013年10月10日記)

2013年10月8日火曜日

丸谷才一全集のこと


 「日々平安録」というブログサイトによくお邪魔する。ブログ主が入手された本について読後感を長らく書き続けておられるが、その御見解には賛同するところが多く、ひそかに敬意を抱いて拝読している。

 このブログに時々丸谷才一に触れた文章が載ることがある。その内容には一読して膝を打たしめるものがあり、丸谷に対する評価には常にもろ手を挙げて賛同してきた。

 「遊び時間」という評論集が刊行された頃から、丸谷の書いたものは殆ど手に入れて読んできたが、ブログ主がおっしゃるように、小説は「たったひとりの反乱」までの初期のもの以外は面白くなく、随筆集は当初その包丁さばきに洒落たものを感じたが、後にはいずれも同工異曲となって新鮮味に欠けるため、10年ほど前から買うことがなくなっていた。結局読めるのは初期の小説を除くと、ジョイスと日本の古典を中心とする評論、翻訳のみに限られる。

 20年近く前に、M新聞主催のある講演会で、学芸部の記者が丸谷講師を「何事においても才が一番」という趣旨の褒め言葉で諂うように紹介したのを聞いて、いやな気分になったことがある。なんとなく大御所、大先生という権威的な匂いがしたのである。その講演の内容は井上ひさしらとともに中国を訪ね、向こうの作家と交歓した折に、色恋を話題にしないことに気づいたということから、彼我の文学観の違いというものに言及したもので、当時「恋と女の日本文学」を執筆中であったのかもしれない。こうした評論活動が丸谷のホームグランドであった。
  
 丸谷の書いた小説を読めば、近代ヨーロッパ文学をモデルに成熟した市民社会を背景とする風俗小説という丸谷の理想はおよそ実現から遠く隔たっていて、その意味で彼は挫折した小説家といってよいのではないか。果して丸谷の目指した方向に日本の小説の未来は拓けるのだろうか。中上健次の死以来、言葉の力の衰えが隠せない日本文学の将来はどこにその道が新たに拓けるのだろうか。

 近く丸谷才一全集が発刊されるようであるが、いかほどの一般読書人がこれを購入するのか、その売れ行きに注目している。

 私はといえば、買わない。

                                              (2013年10月8日記)







 

蛾と蝶と


 一昨日の日曜日、朝、温泉へ行く途中の路
携帯電話より大きな蛾
上で蛾が一匹羽根を広げていた。かなり大きな蛾だった。
 
 昼下がりの帰り道、同じ場所で今度は小さな蝶が一匹羽根を広げていた。

 二匹とも死んでいるのか生きているのか確認せずだったが、撮影中に動く気配がなかったので、どうやら死んでいるようだった。

 初めのは、ここ二日ほど暑さが少しぶり返したので、元気になって夜中に飛び出してきた雌の蛾なのだろう(触角が雌の特徴である櫛状になっている)。

 後のは、昼間飛んでいた蝶(棒状の触覚の
小さな蝶
先がフック形になっているのでセセリチョウらしい)が、午後になって、羽根を広げてここで息絶えたのではないか。


 それにしても殆ど同じ場所で蛾と蝶の死を二度も見るとは・・・ 実に奇遇だ。

              
          (2013年10月8日記)



2013年10月7日月曜日

温泉に浸かる


 昨日の日曜日は温泉に浸かった。

 近くにある温泉には外湯があるので、銭湯代わりに時々お邪魔している。

 ハイキング帰りの人たちなどで混む時もあるが、この日は客が少なくて、小学生がひとり湯船で泳いでいた。

 湯船の縁に坐って足を暖めながら、ぼんやりと夢想に耽るのが好きで、湯に浸かるのはせいぜい10分ほどだ。

 1時間ほど居て外へ出ると、青空が広がっていて、残暑の名残が感じられた。

 駅から電車に乗って、まっすぐ家に戻り、冷たいビールを飲んで昼寝した。

 今の暮らしの最高の贅沢である。


       湯上がりや木犀香る路地をゆく

                                              (2013年10月7日記)

2013年10月4日金曜日

ミロの絵


ミロの絵
孫が描いたもの
 自室の壁にミロの複製画が1枚架かっている。
 
 この絵がわが家に来てたぶん40年近くになると思う。 

 今の家に住む前からすでにそばにあったことは覚えているが、いつやって来たのかは思い出せない。
 
 この絵のenfantineな雰囲気が好ましくて、どこかの展覧会場で買ったような気がするが、定かでない。
  
 で、以来、時々見るともなしに見てきた。

 なんだか孫なんかが書きそうな絵だ。
 
 ミロはマグリットやダリよりもうんと抽象性が高くって、その分、enfantineなのかも知れない。

 とても好きな絵だ。



                           (2013年10月4日記)

2013年10月1日火曜日

小西甚一「俳句の世界」レジメ


 小西甚一「俳句の世界」(研究社出版 1981年刊)のレジメを作った。
 今回はその前半部、第1章「俳諧の時代」から第4章「芭蕉」までを掲載する。



      小西甚一「俳句の世界」レジメ(前半)

はじめに

(1)俳諧と俳句
俳諧とは俳諧連歌(連句ともいう)のことで、その第1句を発句という。 

連歌連句の特色
 ①作る者と享受する者が同じグループの人たち(昔の芸術観)
 ②制作または享受するため特殊の訓練が必要

俳句は俳諧と違い上の特色を持たない「開かれた世界」で子規の革新の最重要眼目

(2)雅と俗
芸術とは「永遠」につながりを付けようとする努力で表現を中心とする
 ①「完成」をめざすもの  「雅」 すでに出来上がっているもの  連歌 和歌
 ②「無限」にあこがれるもの「俗」 新しいものへ立ち向かうこと

俳諧は「雅」と「俗」にまたがった表現である
俳句は子規の革新によって「俗」のみとなった

(3)定型と季
俳諧と俳句は「定型」五七五と「季」によってつながっている

俳諧と俳句の中心理念は「叙述しない表現」である その手段が「季語」で日本人の原始心性に根ざす共通不変の感覚をあらわすものである

1 俳諧の時代

1 古い俳諧

(1)連歌と俳諧の差
俳諧は室町中期の宗祇の時には存在した  花匂ふ梅は無双の梢かな 宗祇法師 玉海集1656(明暦2)

連歌  モーニング姿  古典的な感覚から成り立ち雅で安らかである 「水無瀬三吟」
俳諧  浴衣がけの連歌 俗語や漢語を用いて刺激的である 上の句では無双が漢語

(2)連歌師の俳諧
連歌師は庶民出身で「雅」だけにはとどまれず俳諧に向かった(息抜き)

二条良基の連歌集「つくば集」には俳諧の部がある
宗祇の連歌集「新撰つくば集」には俳諧の部がない  俳諧と連歌が別物となった
俳諧集「竹馬狂吟集」の宗祇の序文は1499明応8に書かれ 連歌と同じ構成をとっている 俳諧が独立した

(3)荒木田守武
荒木田守武は伊勢神宮の神官  元日や神代のことも思はるる(元日が漢語)
守武は独吟千句をやった    氷らねど水引きとづる懐紙かな(水引きが俗語 懐紙が漢語兼俗語) 
      (連歌は懐紙に書いて水引で綴じる 水引きとづるは水面をとざす意)

俗語や漢語は俳言(はいごん)と呼ばれた  定徳は「俳諧は俳言を詠みこんだ連歌」と定義した

(4)山崎の宗鑑
宗鑑の発句として確実なものはひとつもない 
宗鑑の功績は「俳諧連歌抄(犬筑波)」(卑俗性大)をまとめたこと 
  折る人の脛に噛みつけ犬ざくら  形式的季語が多い(季感は表現されていない)
  消えにけりこれぞまことの雪仏  言葉のしゃれが中心

2 貞門の人たち

(1)江戸初期の俳壇
寛永ごろから俳壇が活発になった 貞徳が活動したのと印刷術の発達て俳書が盛んに出版された

(2)松永貞徳
  ゆき尽くす江南の春の光かな   連歌的感覚が豊かな傑作
   杜常「華清宮」に拠る 安禄山の乱で玄宗皇帝は楊貴妃と楽しんだ華清宮を捨て蜀江の南へ逃げた
  萎るるは何かあんずの花の色   美しさがなく調子も低い二流品

(3)貞室と季吟
  歌いくさ文武二道の蛙かな 貞室   蛙が喧しいのは歌いくさでも始めたのかという言葉の俳諧  貫之「花になくうぐいす水にすむかはづの声をきけば生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける」(古今集仮名序)に拠る
  年の内に踏みこむ春の日脚かな 季吟   連歌に親しんだものには結構よい味
   古今集巻頭の「年の打ちに春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」に拠る

貞門の俳諧を鑑賞するには傑作「紅梅千句」が必読

(4)松江維舟
  やあしばらく花に対して鐘つくこと   これまでの俳諧とよほど肌の違う軽快な調子   
   能因法師「山里の春のゆふぐれ来てみればいりあひの鐘に花ぞ散りける」(新古今集巻二)に拠る   謡曲「三井寺」の鐘つき場面を想定
  巡礼の棒ばかり行く夏野かな  巡礼の哀れさを棒ばかり行くとしたユーモアと俳諧味
  秋やけさ一足に知る拭ひ縁   足で秋を知るのが俳諧味で感覚が表現されていることが重要(キーン:文学史近世篇上69P参照)
   藤原敏行「秋きぬと眼にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(新古今集巻五)に拠る

維舟の句は生の実感に根ざすものだが連歌的には落第 貞門とは水と油で談林俳諧の芽生えとなる
貞徳に破門された反逆児で門下に池西言水や上島鬼貫がある(頴原退蔵「俳諧史の研究」参照)
「毛吹草」(1645年)を編纂

3 談林の新しみ

(1)西山宗因
宗因は元連歌師で一幽とも西翁ともいい維舟の親友
  花むしろ一見せばやと存じ候   謡曲口調の軽さに特徴あり
  風に乗る川霧かろし高瀬舟
  秋はただ法師姿のゆふべかな
  菜の花や一本咲きし松のもと

談林派は謡曲口調や字余りが多く破調への傾向や舶来語を用いるなど無軌道振りが目立つ 
全盛は延寶年間の10年ほど

(2)井原西鶴
  長持へ春ぞ暮れゆく衣がへ  (「落花集」寛文11年1671)

西鶴は発句より付合に天分があり矢数俳諧で有名 談林派の指導権を争う(野間光辰説)
 1600句独吟  延寶5年(1677) 生玉の本覚寺 
 4000句独吟  延寶8年(1680)  同
 23500句独吟  貞享元年(1684)住吉神社

  世に住まば聞けと師走の砧かな  貧しい女房たちの悲しさをこめた響き 西鶴のわびしい歌声

貞享以降は俳壇全体が閑寂へ向かっていった

(3)貞享期の談林
水田西吟編「俳諧庵櫻」 岡村不ト編「続の原」
  思ひ出てものなつかしき柳かな 才麿  久保田万太郎の世界みたいな情緒 
  笹折りて白魚のたえだえ青し  才麿
  朝顔や少しの間にて美しき   才麿 
このあたりから季語が季節を示すだけの符号ではなく生きた季感を表現するところまで深まってきた

  春もはや山吹白くちさにがし  素堂 
    山吹の花の白っちゃけた色や旬を過ぎたチシャの苦味に暮春の趣を感じたところが俳味豊か
  眼には青葉山時鳥初がつを   素堂
山口素堂は漢学に精通し芭蕉の「虚栗」時代の表現(漢詩調)に影響を与えた 

  牛部屋の昼見る草の蛍かな   言水  可憐な蛍を昼の牛部屋に見つけた池西言水の把握は非凡

(4)上島鬼貫
鬼貫は伊丹の人で維州に師事し談林派を経て「誠の俳諧」を主張した(俳論「独ごと」) 
  冬枯れや平等院の庭の面      頼政最後の場面に拠る
  にょっぽりと秋の空なる冨士の山
  春の日や庭に雀の砂あびて
  秋風の吹きわたりけり人の顔
  水鳥の重たく見えて浮きにけり

(5)小西来山
来山は大阪の人で18歳で宗因から宗匠を免許された
  春風や堤ごしなる牛の声  談林直系のこの人がこの長閑な句を読んだことに時代の動きを見て注目
  白魚やさながら動く水の色

4 芭蕉

芭蕉は寛永21年(1644)に伊賀上野に生まれ本名は宗房といい藤堂良忠に仕えた
芭蕉は生涯を「表現の旅」にさすらった これを4期に区分する

(1)寛文期 寛文3年(20歳)~12年(29歳)
  月ぞしるべ此方へいらせ旅の宿  謡曲「鞍馬天狗」に拠る おとなしい貞門風の洒落

寛文6年に良忠死去し以降芭蕉は仕官しておらず12年まで消息不明 
寛文12年に句合「貝おほい」を編し郷里の天満宮に奉納(談林的な新奇自由さに溢れている)江戸へ出る
  雲と隔つ友かや雁の生き別れ

(2)延寶元年(30歳)~天和4年(41歳)
江戸で就職活動 延寶5年から8年まで日本橋小田原町で借家住まいして小石川の水道工事に従事
延寶8年深川に芭蕉庵を持ち俳諧師として活動したが天和2年火事で焼け出され甲州に移る(天和3年再建)
  天秤や京江戸かけて千代の春 (延寶3年初めて桃青と号す 従来の貞門風に近い) 
  人ごとの口にあるなりした紅葉
  山の姿蚤が茶臼の覆ひかな  (延寶4年 奇抜な見立てでまさに談林 宗因指導の俳諧百韻に参加)
  枯枝に鴉のとまりたるや秋の月(延寶8年 蕉風開眼の句だが画題「寒鴉枯木」の翻訳に過ぎない)
  雪の朝ひとり干鮭を噛み得たり
  芭蕉野分して盥に雨を聴く夜かな(天和元年 風の相手を芭蕉に雨を盥にの詠じ分けは談林の名残)
  櫓の声浪を撃って腸氷る夜や涙 (固い漢詩調 当時の芭蕉は俳諧としての表現に欠かせぬと意識)
  髭風を吹いて暮秋歎ずるは誰が子ぞ(杜甫「白帝城最高楼」終句に拠る 髭風を吹いては倒装法)
  鐘消えて花の香は撞く夕かな  (元禄2年 杜甫「秋与八首」と関連 龍之介「芭蕉雑記」参照)
  霰聴くやこの身はもとの古柏(天和2年 再建後の庵の柏に身をなぞらえ心の底から滲出る深い独語)

(3)貞享元年(41歳)~元禄5年(49歳)
*貞享元年 秋(旧暦8月)「野ざらし紀行」に出る
  野ざらしを心に風の沁む身かな(西行や宗祇に並ぶ俳諧の芸術性の自覚が潜む)
  道の辺の木槿は馬に食はれけり(ありふれたものに深い美しさを感じていく態度は「かるみ」の萌芽 キーン文学史近世篇上142p参照)
  手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜(母の遺髪を手にして やや過剰表現)
  秋風や藪も畑も不破の関     (屈指の名句 秋風の季感が全体を引締める見事さ) 
  曙や白魚しろきこと一寸   (ほの暗い中曙の光で白魚の姿が生動する趣が鮮やか 杜甫「白小」)

 秋から冬を尾張で過ごし「冬の日」5巻(野水荷ケイ杜国重五羽笠ら)が生まれ芸術的な飛躍を遂げる
  海暮れて鴨の声ほのかに白し(景色だけで感情を入れない「描写型」 これまで芭蕉にない表現)
 異種の感覚による把握を共感覚と呼び禅でよく見られフランス象徴詩で多用された

*貞享2年 旧暦2月故郷の伊賀を出て奈良京都熱田木曽路甲州を経て4月末庵へ戻る
  山路来て何やらゆかし菫草 (京から大津への山路で 三冊子参照)
  唐崎の松は花より朧にて  (発句に必要な切れ字がないが眼前の景は規則より大切との態度が重要)
 
 芭蕉の「俗」は連歌と同じ高さを持ちながらしかも連歌では詠まない世界であるー蕉風俳諧理解の鍵
  夏衣いまだ虱を取り尽くさず(俳諧の骨髄の味がする句)

*貞享3年 
  古池や蛙とびこむ水の音 (あたりの景色の描写を消して水音に焦点を集中)
 「描写しないことによって描写する以上に表現」は禅の「不言の言」と共通するー芭蕉俳諧の核心
  (キーン「日本の文学」42p参照)

  よく見れば薺花さく垣根かな (無味平淡につまらぬ雑草への感動と愛情を描いた句 かるみ) 
  五月雨ににほの浮巣を見にゆかん(浮巣を見にゆくことが連歌人の感覚でなく俳諧 三冊子参照)
  瘦せながらわりなき菊の蕾かな(瘦せながらも蕾を持った菊への愛憐の情が細く鋭い ほそみ)

*貞享4年 10月「笈の小文」の旅に出る コースは前回とだいたい似たもので翌年9月10日までに帰庵 
  旅人と我が名よばれん初時雨 (旅の最初の句で時雨は西行や宗祇にも連想が濃い)
  故郷や臍の緒に泣く年の暮れ (伊賀に帰っての句 上五に「故郷や」と置いた表現は見事)

*貞享5年 
  丈六に陽炎たかし石の上 (伊賀の神龍寺に詣でて)
 一丈六尺の大仏の元あった石の台に立つ陽炎の高さだけ言ってあとは叙述しないのが俳句表現の特性

  何の木の花とは知らず匂ひかな (2月4日伊勢参宮の句)
 西行「何ごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」に拠る。心の中の感じを直接持 ち出さずあたりの景色などを透してそれとなく表現する「象徴」の技法は俳諧では芭蕉が最初(和歌で は「玉葉集」参照)

  ほろほろと山吹散るか滝の音 (3月半ばすぎ杜国とともに吉野の花を訪ねる)
 この滝は吉野川の激しい渓流をさす 「か」は詠嘆のおもむき 屈指の名句である

  父母のしきりに恋し雉子の声 (高野山にて)
 「父母のしきりに恋し」と「雉子の声」が融けあって高く美しい叙情が流れる 心情と景趣がともに表 面に出て対立しながらしかも感覚の深層で融合する「配合}の技法 杜甫から学んだらしい(太田青丘 「芭蕉と杜甫」参照)

  若葉して御目の雫拭はばや (唐招提寺で鑑真像を拝して)
  くたびれて宿かるころや藤の花 (八木あたりの宿にて 心身の緩みと藤色との配合の句)
  蛸壺やはかなき夢を夏の月 (4月20日明石にて)

 8月中旬越人とともに「更級紀行」の旅
  身にしみて大根からし秋の風 (からしは大根にも秋風にも浸透するするからさで共感覚の応用例)

 芭蕉は「笈の小文」初頭の俳諧観において俳諧の芸術性を明言し実際の作品においてはっきり示した

*元禄2年 「奥の細道」の旅(3月27日~元禄4年11月)
  陽炎の我が肩にたつ紙衣かな
  草の戸も住みかはる代ぞ雛の家 (芭蕉庵を知人に譲り雛人形が飾られた)

  夏草や兵どもが夢のあと (5月13日平泉にて 杜甫「春望」に拠る) 
 常住対流転という思想性が発句の主題となったのは俳諧史に特筆される 思想をイメイジとしての夏草 に語らせた表現は芭蕉の句が近代西洋文芸のもうひとつ先を17世紀に開発したこと)

  閑かさや岩にしみ入る蝉の声 (出羽の立石寺にて 寺は全山が岩山でその上に松柏が茂っている)
 「配合」と並ぶ発句の表現技法「黄金を打ち延べたるがごとき技法」の代表例 名句中の名句
 イ音の響きが6回使われ特殊な効果を挙げている(キーン文学史近世篇上162p参照) 
 6月3日羽黒山で芭蕉の指導を受けた団司左吉(呂丸)の「聞書七日草」に不易流行説の原形が見える

    荒海や佐渡に横たふ天の河 (7月4日出雲崎にて 日本海の暗さを念頭に)
  石山の石より白し秋の風 (8月5日北枝と二人で那谷寺にて 境内は灰白色の岩ばかり)
 
 9月3日大垣に入り知人たちに歓迎された芭蕉は伊勢参宮のため9月6日船で出発 「奥の細道」筆を置く

  猿も小蓑をほしげなり (9月下旬伊勢より伊賀への山路にて 「猿蓑」巻頭の有名な句)
 「初」はその年のはじめのものを賞玩する感じがあり「お前もこの初時雨をめで蓑でも着て濡れてみた いといった顔だね」という能勢朝次の名解がある
 
 伊賀に帰り11月まで滞在し奈良を経て12月24日に嵯峨の落柿舎に留まりそして膳所で越年正月再び伊賀 に戻り3月にまた膳所に来る

*元禄3年 
  木の下に汁も膾も櫻かな (3月頃 芭蕉「花見の句のかかりを少し心得てかるみをしたり」三冊子)
 かるみとは特定の作調を意識せず子供と同じ無邪気さで対象と溶け合う態度 平明無技巧安らかな作調

 4月上旬から石山寺近くの山中に「幻住庵」に居を持つ 「幻住庵の記」
  まづ頼む椎の木もあり夏木立

 8月に大津の義仲寺の草庵(無名庵 没後ここに葬られた)に移り大津の乙州の宅で年を越す
  病む雁の夜寒に落ちて旅寝かな 
 流寓病臥する芭蕉の感情は句の表に語られていないが語られるよりも深く迫る みごとな象徴 代表句

  寒鮭も空也の痩せも寒の内 (事象対事象の配合であり背後に深い悲痛寂寥の情を潜める象徴の句)
 芭蕉「心の味を言ひとらんと数日腸をしぼる」三冊子

*元禄4年
  梅若菜鞠子の宿のとろろ汁 (乙州の江戸行きを送った句 とろろ汁とはまことに俳味豊か)
  行く春を近江の人と惜しみけり (3月末 近江のいちばん近江らしい感じの中心点をしっかり把握)
 
 4月18日から5月4日まで落柿舎に滞在
  郭公大竹薮を漏る月夜 (嵯峨日記4月20日 あの大竹藪が深閑と更けわたった奥深さと静寂の巨)
  五月雨や色紙へぎたる壁の痕 (落柿舎を発つ前日の句)

 7月に「猿蓑」刊行 9月下旬江戸へ向けて発ち11月1日江戸着 橘町に仮寓をもとめ越年 
 翌5年5月中旬杉風や曽良などの奔走で深川に出来た第3次芭蕉庵へ移る
  名月や門にさしくる潮がしら (第3次芭蕉庵の実景)
  塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 (芭蕉のわびしい心の寒さを見逃してはならない 象徴の手法)
 芭蕉が其角「声嗄れて猿の歯白し峯の月」の人を驚かす趣向とは逆の表現をめざしたことがよく分かる 
(4)元禄6年(50歳)~7年(51歳)
*元禄6年 老いの訪れ 人間的悩み(養子桃印内妻壽貞と娘2人との同居 桃印の死 江戸俳壇との疎隔)
  朝顔や昼は錠おろす門の垣 (この秋門を閉じて来客を謝絶 閉関之説)
  朝顔やこれもまた我が友ならず (いよいよ深い孤独)
  生きながらひとつに凍る海鼠かな (醜い海鼠であるだけに哀憐の情が深く滲む 心の色が強く出る)
  在明も晦日に近し餅の音 (心の寂寥がしみじみ聞こえてくる「かるみ」の代表的名句 楸邨が賞賛)  梅が香にのつと日の出る山路かな (「かるみ」の代表作 卑近平明だけでなく高い美しさに注目)

*元禄7年 
 5月8日最後の旅に出る 
  麦の穂をちからにつかむ別れかな (弟子たちに送られ品川宿を出て籠の中で)
  六月や峯に雲置く嵐山 (6月上旬 把握の新鮮さ感覚の壮大さ声調の緊密さすばらしい句)
  夏の夜や崩れて明けし冷やし物 (「かるみ」の代表作)
 句会を終えた後のしらじらしさと冷やし物の崩れた感じがよく浸透して寸分の隙もない 
 
 6月28日{かるみ」の代表的選集「炭俵」刊行 この作風は弟子たちに定着せず蕉門としては完成しない 
  家は皆杖を白髪に墓参り (7月中旬伊賀に帰り墓参)
  数ならぬ身とな思ひそ魂祭り (江戸より6月2日壽貞死去の報 詰まらぬ身だったと思ってくれるな)
  菊の香や奈良には古き仏たち (9月9日奈良にて 花でなく香だから千年の昔まで心が漂っていく)
 菊の古雅な美しさ仏像の蒼古たる高貴さだけが凝集してくる感じを配合の技法で表現した

  この秋は何で年よる雲に鳥 (9月26日大阪にて 漂泊の寂寥感が微かに響き恐ろしいほどの深み)
 芭蕉「雲に鳥」と把握するまでには腸を裂くほどの苦心をしたー支考「笈日記」
 眼前の実景でなくそのものに潜む一番それらしい在りかたを詰めていった結果の表現 
 何かしらしのびよる死の足音を予感したさびしい諦観まで感じられて神秘的と称すべき傑作

  この道や行くひとなしに秋の暮 (同じ日のおそらく夜分に 芸術家の永遠の孤独から響くつぶやき)
  白菊の目にたてて見る塵もなし (9月27日 伊勢の人斯波一有の妻園女に招かれその挨拶句)
  秋深き隣は何をする人ぞ (29日芝宅での句会へあらかじめ送った句 前日以降体調悪く再び起たず)
 この句には蕉風の特色であるイメイジがなく作調は生のさびしさの極みである

 「かるみ」とは「流行」に根ざすものでいつも前に一足踏み出していくことである 
 それは作者として の「態度」attitudeでありそこから生まれる表現の有様が「作調」toneとなる 
  閑寂に深まってゆく態度から生まれる作調が「さび」
  繊細な感覚で鋭く穿ち入る態度からの作調が「ほそみ」
  情感と従順に融けあってゆく態度からの作調が「しほり」
 しかし態度としての「かるみ」はひとつの境地に足を留めないことだから特定の作調になるとは限らぬ いまだに「かるみ」の意味が決定されないのは作調としての「かるみ」を特定しようとしたからだ
 「秋深き隣は何をする人ぞ」の句はイメイジに依存した技法から踏み出している点で「かるみ」に属する
 だが作調はさびしい時はさびしいと感ずる生の「さびしさ」の極みである 
 人間本来の感じ方に帰ってゆく「流行」は門人に理解されず芭蕉は「この道」を独り行くほかなかった

 10月5日之堂宅から御堂前の花屋仁左衛門方裏座敷に移り支考はじめ弟子たちが集まって看護する
  旅に病んで夢は枯野をかけめぐる (8日呑舟を呼んで)
  清滝や波に散りこむ青松葉 (9日支考を呼んで)
 
 10月10日夕方から危篤 支考に遺言状を3通書かせ自らも1通書く 11日其角と今生の対面 
 10月12日午後永眠 享年51歳 遺言により義仲寺に葬る
 
 芭蕉は生きた俳諧史であり俳諧表現の主要な問題は殆ど芭蕉に尽きる 
 残した問題も少しあるがそれを解決したのは蕪村であり芭蕉に較べるといくらか小型である 
                          
  <以下、後半に続く>                                        

                                            (2013年10月1日掲載)