―旅立ちや桜舞ふ日に南蛮へ―
年をとると巡礼への関心が高まり四国や西国の寺社を巡って納経にいそしむ人が多くなる。外国にも同じような習俗があって、最も有名なのがカトリックの三大聖地巡礼である。その一つ、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラを訪ねようと思ったのがもう30年も前のこと、昨年春に退職してすぐに出かけた。
サンテイアゴ・デ・コンポステラの巡礼路
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目的地サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペイン北西部ガリシア州の町、カトリックの大聖堂があって世界中から巡礼者が訪れる古来からの聖地である。道中にはパンプローナ、ブルゴス、レオンなど有名な都市もあり、観光ルートとしても資源に富んでいる。
国内ではなくなぜスペインなのかといえば、旅の経費があまりかからないからである。今回1ヶ月の旅で交通、食事、宿泊など総額で20万円に満たなかった。おそらく四国巡礼の経費より少ないのではないか。
国内ではなくなぜスペインなのかといえば、旅の経費があまりかからないからである。今回1ヶ月の旅で交通、食事、宿泊など総額で20万円に満たなかった。おそらく四国巡礼の経費より少ないのではないか。
さて、季節は春、桜舞う4月、カタールのドーハ経由でパリへ飛び、ボルドで一泊したあとピレネ山脈北麓のサン・ジャン・ピエ・ド・ポーに着いた。砲台跡の残る高台と山麓の狭間に家並みが広がり、春雨に濡れて静かに佇んでいた。
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| サン・ジャン・ピエ・ド・ポー駅 |
ここを起点に約800Kmの旅が始まる。途中1500m級の山越えが4箇所あり、徒歩でおよそ1ヶ月を要する。通称「フランス人の道」と呼ばれていて、大半の巡礼者がこの道を行く。
まず宿の向かいにある案内所へ行き、クレデンシャル」と呼ばれる折り畳式の巡礼手帳を貰った(2€)。先々の教会や宿などでこの手帳にスタンプを捺して貰い最終地で確認を受けると巡礼路完歩の証明が出るのである。
宿では地元フランスのほか、スペイン、オランダ、アイルランド、アメリカ、カナダ、韓国などから老若男女20名余りが集まって、中庭で食卓を囲み晩餐を共にした。めいめいが自己紹介、それを女主人が英仏西語を巧みに操ってみんなに伝える。日本人は極めて珍しいので「稀人来たり、乾杯を」と突然命ぜられて咄嗟に英語が出ず、「われわれのよき旅のために乾杯」と大声で叫んで凌いだ。ところがこの日本語が喝采を享けたのである。また、この宿にはボランティアで働いている人たちが数人いた。自ら巡礼を果たしたあと、期間を定めて奉仕のために遠く異国から来ているのである。
消灯時刻の午後10時、2段ベッドが2台並ぶ狭い部屋で、いよいよ旅が始まるという興奮の冷めやらぬまま眠りに就いた。明日はピレネー越え。切に好天を願う。
―八時間歩みて長きピレネ越ゆ巡礼の道けふ踏み出しぬ―
翌日のピレネ越えは晴天となった。宿の人に「Buen Camino(よき道を)」と送り出されて8時前に出発。9キロのリュックを背に杖1本で予定通りナポレオンが遠征した山岳ルートを行く。最初の10キロほどは登りで、同宿のオランダ人夫妻と同行。ゆっくりとペースを合わせてくれるので助かる。登りきると尾根沿いのなだらかな道になった。標高は1000mを超え緑の牧草地が広がっている。先行してゆく夫妻に遅れて、5キロ進んで古い石造りの十字架に到る(写真)。
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| 石の十字架の前で |
ここを過ぎると木も生えない原野が続き、山の緑と空の青さだけに切り分けられた世界に入り込む。しかし間もなく森の木蔭が戻ってきて、申し訳程度の木の柵と1mほどの鉄の橋を渡って国境を越えた。またアップダウンのある吹きさらしの山道が続き、やがて標高1430mのレポエデール峠に着いた。眼下にスペインの大地が広がり、修道院の尖塔が見える。森の中の急坂を下って午後4時過ぎロンセスバージェス修道院に到着。出発から8時間半、25kmを歩いてかなりくたびれたが、天候にも恵まれ無事に修道院付属のアルベルゲに入った。
巡礼路の各村には必ずといってよいほど<アルベルゲ>という5~10€で泊まれる公営または私営の宿があり、二段ベッドに清潔なシーツと枕、シャワー、トイレが整備されている。自炊用のキッチンや洗濯機のあるところもある。非常にありがたい設備であり、お陰で世界中からやって来る多くの巡礼者が安価で旅をすることができる。このアルベルゲは100人以上収容できる大きなもの。まだ新しく清潔で、第1夜を静かに気持ちよく過ごすことができた。昨夜の宿で知り合った巡礼者たちも殆どここに泊まっている。
同室には道中出会った日本人Hさん、スロバキアから来たMさんというどちらも40歳前後の若い人。二人ともカトリック信者だが、クリスチャンならざる者が巡礼路を歩くということに関しては、スポーツの一種として見ていて排除はしない。夜のミサにも一緒に参列したが、神父の前で行う聖体拝領はさすがに遠慮したほうがよいと言われ、自席に留まって見届けるだけにした。しかし、受付で巡礼の動機を尋ねられた時は、一瞬躊躇したが「宗教上のもの」と答えた。私の場合は信仰を求めるというよりも、クリスチャン文化への関心からであるが、広義にreligiousといえるのではないかと考えて、そう返答したのである。では明日からの旅の平安を祈って眠ろう。
-牛追ひの如くに駆けて来たる人巡礼の道示して去りぬ-
次の日は海抜950mにあるロンセスバージェス修道院からピレネー西麓をパンプローナへと向かった。
夜明けすぐに宿を出たが、天気はあいにく小雨で道はぬかるんだ。清流アルガ河に沿って、牧場、野原、林間を通る緩やかな下りの山道を行く。河沿いには数キロごとに小さな集落があり、この地方独特の白壁に赤屋根の民家が軒を連ねている。この辺りはバスク地方の中心部で、若きヘミングウェイが小説「日はまた昇る」で描いているように、友人と鱒釣りに興じたところだし、古くはシャルルマーニュ大帝のスペイン遠征の合戦地となったところである(叙事詩「ローランの歌」)。この日は28Km歩いて、途中のララソアーニャという小村で一夜を過ご
し、翌日、青空の下、トリダッド・デ・アレを経て、昼にパンプローナに到着した。
この街はナヴァーラ州の州都で人口20万人の大きな都会。毎年7月に行われる牛追い祭り「サンフェルミン祭」で夙にその名を世界中に知られている。日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会士ザビエルがこの地の王族の出身で、街から車で1時間のところに「ハビエル城」として今も一族の居城が残っている。その様子は司馬遼太郎「南蛮のみち」に詳しい。
夜明けすぐに宿を出たが、天気はあいにく小雨で道はぬかるんだ。清流アルガ河に沿って、牧場、野原、林間を通る緩やかな下りの山道を行く。河沿いには数キロごとに小さな集落があり、この地方独特の白壁に赤屋根の民家が軒を連ねている。この辺りはバスク地方の中心部で、若きヘミングウェイが小説「日はまた昇る」で描いているように、友人と鱒釣りに興じたところだし、古くはシャルルマーニュ大帝のスペイン遠征の合戦地となったところである(叙事詩「ローランの歌」)。この日は28Km歩いて、途中のララソアーニャという小村で一夜を過ご
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| パンプローナの隣街トリニダッド・デ・アレ |
この街はナヴァーラ州の州都で人口20万人の大きな都会。毎年7月に行われる牛追い祭り「サンフェルミン祭」で夙にその名を世界中に知られている。日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会士ザビエルがこの地の王族の出身で、街から車で1時間のところに「ハビエル城」として今も一族の居城が残っている。その様子は司馬遼太郎「南蛮のみち」に詳しい。
パンプローナの街角に立って観光案内所でもらった地図を広げて眺めていると、大きな手提げ鞄を持った元気のいい中年の男性が足早に笑顔で近づいて来て、「どこの国からですか?私も以前巡礼をしたことがあります」と言いながら、通りや広場をいくつか通り抜けて数百メートルも先の目抜き通りまで案内してくれた。そして「ここをまっすぐ行けば街から出られます。Buen Camino!」と、大きく手を振ってまた足早に去って行った。このように、道中、巡礼者に人々は必ず「Buen Camino!」と言葉をかけてくる。「よい道中を」という挨拶言葉だが、そこには巡礼者に対する暖かい励ましを感ずる。さらに言えば巡礼者を見る目にはそこはかとない敬意すら浮かんでいるような気がする。これは今回歩いて見て身に沁みて感じたことで、人々の心の中に巡礼への思いやカトリック信仰が今も根強く生きているようだ。
路上に埋め込まれた帆立貝のマークや、家壁、樹木等に記された黄色い矢印を、時々見失いつつもなんとかたどりながら街を出て、この日は20Km歩いて隣の村シスル・メノールの私営の宿に宿泊した。夕食は近くのレストランで巡礼メニュー(10€)を頼んだが、パエリャ、豚フィレのソテー、アイスクリーム、パン、ワインがとてもおいしくて、さすが美食の地バスクだと感じ入った。
-風車立つ坂を登りしわれもまた憂ひ顔の老騎士ならずや
旅も4日目。この日は南仏からの巡礼路との合流地である23km先の街プエンテ・デ・ラ・レイナ(王妃の橋)を目指した。
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| エウナテのサンタ・マリア教会 |
前夜は隣のベッドで大鼾をかかれたため寝不足気味。この先も何度か大鼾に悩まされたが、周りは閉口しているのに本人は目が覚めないのが不思議である。
曇り空の下、麦畑に囲まれた道を行き、発電用の風車が立ち並ぶ急な山道を登って、2時間ほどでペルドン峠(標高780m)を越えた。前方にはナヴァーラ平野の麦畑と森が広がっている。石がゴロゴロして足場の悪い坂を下り切ると、しばし巡礼路から離れてエウナテのサンタ・マリア教会を目指した。降り始めた雨は次第に雨脚を早め、着いた時には本降りになっていた。この教会は12世紀中葉に建てられた巡礼者の救護院の礼拝堂で、エルサレムの聖墳墓教会と同じ八角形の姿をしたロマネスク建築である。狭い身廊の中に鎮座するマリア像を拝し、小やみになった雨の中をオバノスの村へ向かう。ちょうどお昼時の村祭りの最中だったので、大勢の村人に混じってワインとサンドイッチを振舞ってもらった。
プエンタ・デ・ラ・レイナの街の入口にある宿に着いたのは14時半。初日の宿で一緒になったアイリッシュの3人と同室になり、抱き合って再会を喜びあい、夕食をともにしたが、女性二人は休暇が切れるので明日帰国、男性Vさんも3日後に戻るという。時間が取れない人はこういう風に行程をいくつかに分割して後日またその先を歩くのは四国霊場などでもよく見られることだが、同行者が早々と消えるというのは取り残されたようで寂しい。
翌5日目の朝、11世紀半ばにこの地の王妃が巡礼者のために建設した6つのアーチのある優美な石橋を渡り、州道沿いのブドウやオリーブの畑に囲まれた田舎道へ出た。曇り空から次第に日差しが漏れはじめ青空が広がってきた。中空に浮かぶような丘の上の村シラウキを過ぎて、アップダウンを繰り返しながらエステージャへ向かい、23km歩いて14時に宿へ着いた。ここでもVさんと一緒になり、街の案内所お薦めの「HORNO SAN MIGUEL」というレストランで杯を交わした(ここのメニューは道中最も美味だった)。
街には中央を流れる清流エガ川沿いに12・3世紀に建てられたナヴァーラ王宮や教会が残っていて、静かで落ち着いた佇まいが印象に残った。
-大空に高き半弧の虹ありてリオハぶどうの畑に架かれり-
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| トレス・デル・リオの聖墳墓教会 |
一昨日の宿で同室だったフランス人Hとその友人のスペイン人Sに街中で偶然出会い、夕食を共にして歓談した。Hは40半ば、カルフールの財務部門に勤務、子息が大学受験でたいへんらしい。フランスでは珍しい姓で長身痩躯。聞けば北方のヴァイキングの系統で、ヴァイキングの欧州進出のあらましを話してくれた。ゴマ塩頭で丸顔のSはダリの絵やブニュエルの映画に詳しく、「僕の名はダリと同じ」とニャっと笑った。
次の日も夜明け前に出て18km先のログローニョへ向かった。名だたるリオハワインの産地で、かつてボルドーの葡萄が病気で大打撃を受けたときに代替地として開発されて以来、スペイン最大のワイン産地となっている。朝日を受けて虹の架かる葡萄畑の中を通り抜けて昼前に宿に到着。道中最初の日曜日なので午後は休養し、タパス(一品料理)街でHと飲んだ。
ところで、熊野古道とは姉妹道の関係にあるこの巡礼路を知ったのは、作家小川国夫氏が書いた案内書を30年余り前に読んだことによる。当時は巡礼者も少なかったが、1993年に世界遺産に登録されてから次第に増えて、今では年間10万人に達する。伝説ではイエスの弟子の一人ヤコブの遺骸が813年にサンティアゴで発見され、それを記念して墓の上に大聖堂が建てられた。10世紀初めにはすでに巡礼が行われていた記録があり、当時イベリア半島を占拠していたイスラム勢力に対するキリスト教国の失地回復の戦い(レコンキスタ)の最前線であって、ヤコブは国の守護聖人として崇められた。欧州各地との交通路ともなり、ロマネスク様式の教会や修道院が多く建設され、12世紀には年間50万人の巡礼者があったという。以来、今日まで巡礼者は絶える事がない。
-人寄れば先を争ふ心あり旅人競ひて野道駆けゆく-
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| リオハワインのぶどう畑 |
さて、早朝ログローニョの街を出ると、ぶどう畑が延々と続いた。棚と灌水施設がきちんと整備されていて、水は小さな運河から汲み上げている。途中、2箇所のバルで休憩を取りながら、夕方、ナヘラに到着。アルベルゲで巡礼証明のスタンプをもらい、さらに歩いて次の村アソフラで宿をとった。
この宿は珍しく2人部屋で、マドリッドから来たというMというピカソを小さくしたような丸刈りのスペイン人と同室になり、スペイン語のあいさつや自己紹介の仕方などを手ほどきしてもらった。御年70歳。「靴の調子が悪くてね」と言いながらとても俊足だ。ログローニョの宿で言葉を交わした韓国人Cさんも泊まっていたので夕食後少し歓談。カトリック信徒のCさんは化学関係の企業のOBで日本にも勤務したことがあり、日本語がとても堪能、今はソウルの近くで孫のお守に明け暮れする毎日という。
翌朝、宿を出ると後ろから日本語が聞こえてきた。同期入社仲間という男3人組で、一番若い人がこの春無事定年退職したのを記念して巡礼を志したという。この先のブルゴスまで一緒に歩いたが、一番若い人が一眼レフのシャッタを切りながらどんどん先へ行って一休み、そのあとを二人がえっちら追いかけて、追いついたと思ったらまた一眼レフが先へ行く。それを繰り返して進んでいく。この一眼レフ氏は「鉄砲玉」というあだ名だそうだ。
この日は寒くて途中で霰が降る中、10時にサントドミンゴデラカルサーダに着いて大聖堂を見学。この街は巡礼のための石畳の道、橋、救護施設などの建設に生涯を捧げた「聖ドミンゴ」を記念して開かれ、巡礼路の名所として広く知られている。街中で先を急ぐCさんと出くわして、その後を追うように歩いていくと後ろから3人組が追いかけて来た。こうなるとマイペースはものかは競争気分が生じて、先行する人影を見失うまい、後ろから追いつかれまいとしてピッチが上がる。折からの強風できつい歩行となり、夕方ベロラドの宿に着いた時には息も絶え絶えになっていた。前日は34km、この日は38kmという強行軍だった。
-茫々たる果てなきメセタただひとり歩み続ける巡礼の道-
10日目の朝、ベロラドの宿を発つと巡礼路第二の難所という<オカの山越え>が控えていた。野道を吹きつけるとてつもなく強い風に行く手をはばまれながらも次第に山道に入り、昼過ぎにようやく標高1165mのペドラハ峠に到着した。立ち並んでいるフランコ時代の虐殺の犠牲者のモニュメントに合掌し、山を下った。この日は27km歩いてアヘスという小さな村で泊。
ブルゴスの城跡から見る大聖堂の背面と街並み
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翌朝、宿を出たところで、ばったり出くわした名古屋の三人組と一緒にエル・シドの物語で名高いブルゴスへ向かった。道中23kmのうち8kmは三人組に誘われて郊外バスに乗ったので昼には宿に着。先着していた韓国人Cさん、三人組と共に大聖堂前のレストランに入りビールで乾杯、昼食を取りながら思う存分雑談を楽しんだあと、午後は、大聖堂を見学、三人組のひとり「鉄砲玉」さんと快晴に恵まれた街中を散策し、城跡のある背後の小高い丘に登って街を一望しながら記念写真を撮った。
宿に戻ると妙齢の日本人女性が二人いて、どちらも一人旅という。大阪からというOさんは、道中、何度かその名前を耳にしたことがあり、ざっくばらん元気たっぷりオオサカのおばちゃんという感じ(おっと失礼!)。一方、勤め先を退職して旅に出たというKさんは華奢で藤村志保に似た大和撫子。夕食のあと、三人組はドイツ人の若い女性と一緒に談話室で寛いでいたKさんを捕まえて喋りこむので、やむなく末席に連なって消灯時間までおつきあい。Kさんはピレネを一緒になった外国人の男とハイペースで歩いたため足を傷めたらしく、ついにダウン、しばらくこの街に留まるという。大和撫子にマイペースで歩くことの大切さをつい忘れさせてしまったその外国人にいささか敵意を覚えたのはわれながらびっくり。外国旅に出ると人は突如ナショナリストになるようである。
<メセタの大地>が始まる
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-喋ること余りに速しヤンキーの言葉の苦労知らざる娘-
カストロへリスの宿では体育館のような広間に敷かれたマットと毛布のお陰で久しぶりに手足を十分伸ばして寝ることができた。脱水機があったので洗濯物の乾きも早く、食料も近くの商店で手に入った。こういう使い勝手のよさは前任のオスピタレイロ(管理者)が日本人だったせいかもしれない。日本からテレビ局が取材に来たこともあるという。
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波を立てて流れるカスティージャ運河
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翌12日目は丘を一つ越えてまたメセタの大地を延々と歩き、昼にはカスティージャ運河に達した。強い風で水面には波が立ち岸辺の草が激しく揺れている。運河沿いに小1時間行き、フロミスタの街に入って教会を訪ねたが生憎入口は閉まっていた。小雨がパラ突き出したので先を急ぎ、この日は39km歩いて18時半にビジャカサール・デ・シルガの宿に着いた。
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麦畑を貫いて延びる巡礼道
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翌朝はまだ暗いうちに出発。最初の街カリオン・ロス・コンデスでは広場に日本では見かけない超特大のトラクターや自動車が展示されていて、中にスズキの軽四が1台あったのはご愛敬だった。街を抜けると麦畑の中に一本の並木道が17kmも伸びている。空は青く暖かい絶好のウォーキング日和で、32km歩いて16時にテンプラリオスに到着し、賄いつきの私営の宿に泊まった。
隣のベッドはプエルトリコから来たという70歳の会社社長氏。食事はレンズ豆のスープ(いい味)、ビーフステーキとプリン。同じ食卓にアメリカ人の若い女性がいたが、あまりの早口の英語についていけず、そそくさとベッドに戻って足の豆のケアをした。肩も痛い、右足の土踏まずにも痛みがある。
次の日は出発してすぐにオーストラリア人男性Eさん(66歳)と一緒になった。航空機のボーイング社のOBで、日本に来たことがあり、息子が3年大阪に暮らしたあと、日本人の細君を娶ったとのこと。「Youが昨夜の夕食をすぐに切り上げたのは、あのアメリカ娘の早口のせいだね、Youも外国で暮らせばすぐ慣れるのだが・・・」と鋭く見抜く。Eさんは俊足なので最初の村で先に行ってもらったが、そのあとすぐに名前から、大和撫子Kさんが一緒に歩いて足を痛めた相手だと気がついて、その人当りのよさが印象に残った。
-異国人共に集ひて食ひ歌ふ楽しき今宵巡礼の宿-
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| レオン修道会が運営するベルシアノスのアルベルゲ |
昼にサーグンの街で食料とワインを買い、小1時間ほど過ぎたところで猛烈な向かい風が吹き出した。ベルシアノスの宿まであと4kmだが風に圧されて普段の半分も進めない。坂道では圧し戻されないように後ろ向きになって尻から登り、2時間の牛歩の末、ヨレヨレになって何とか到着。ここはレオン修道会運営の宿で、オスピタレイラ(管理人)のLさんはカナダ人、金髪で鶴のように細い女性、お年は70位とお見受けした。Lさんもこんなに強い風は初めてだという。建物の外に干されている洗濯物がすべて横一文字になっている。木々の少ないなだらかな丘陵地がどこまでも続いてこの風を地平線の向こうまで運ぶのだ。成程、スペインに風車が多いのも宣なるかな。
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| 部屋には二段ベッドがぎっしり |
夕食は19時半から。材料は宿が提供し調理は巡礼者が行うのがここの慣わしで、キッチンでは女性の巡礼者が下ごしらえに大童。隣の食堂には40人余りが揃い、3割がスペイン人、7割が異国の巡礼者で、隣合わせたフランス人夫妻は年毎に分割して歩いていて、今回は昨年の終点ブルゴスからスタートしてサンティアゴを目指している。野菜サラダ、肉団子・ジャガイモ・人参・トマトの煮込み、パン、赤ワインの夕食をいただいたあと、賄い役のAさんという初老のスペイン人男
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| 手作りの夕食をみんなでいただく |
-眼に見えぬ導きの手に牽かれ聴くさらに歩めと呼ぶ声するを-
ベルシアノスの宿でレオン修道会のお世話になった一夜が明け、翌日は晴れ渡った青空の下、7時半に出発、なだらかな道を26km歩いてコウノトリが教会の屋根に棲んでいる街マンシージャ・デ・ラス・ムラスに泊。
次の日は23km歩き、昼にはレオンに着いて宿に入ると、日本語が達者なあの韓国人Cさんの姿があった。早速、観光案内所で貰った絵葉書に、無事レオン到着の旨を記して自宅へ郵送(切手代0.9ユーロ)したあと、小雨降る中、百貨店「コルトイングレ」へ行って、バンドエイドとワインなどを買い、紐で代用していたリュックの肩ベルトを胸前で締め合わせるバックルを手に入れた。これで肩の負担もだいぶ楽になりそうで一安心。実は朝方、この紐が見当たらないので、困ったなと思いながら靴置場へ行くと、置き忘れていたのか、誰かが置いてくれたのか、棚の隅にぶら下がっていた。「さらに歩き続けよ」との啓示のような気がしてこれにはずいぶんと元気づけられた。
次の日は23km歩き、昼にはレオンに着いて宿に入ると、日本語が達者なあの韓国人Cさんの姿があった。早速、観光案内所で貰った絵葉書に、無事レオン到着の旨を記して自宅へ郵送(切手代0.9ユーロ)したあと、小雨降る中、百貨店「コルトイングレ」へ行って、バンドエイドとワインなどを買い、紐で代用していたリュックの肩ベルトを胸前で締め合わせるバックルを手に入れた。これで肩の負担もだいぶ楽になりそうで一安心。実は朝方、この紐が見当たらないので、困ったなと思いながら靴置場へ行くと、置き忘れていたのか、誰かが置いてくれたのか、棚の隅にぶら下がっていた。「さらに歩き続けよ」との啓示のような気がしてこれにはずいぶんと元気づけられた。
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| レオン大聖堂の参会者 |
宿へ戻って一眠りすると、もう雨はやんでいて、濡れた石畳の街路をひとりで散歩しながら博物館と大聖堂を見学。夕食はCさんとすぐ近くのレストランでとったが、「いや、実に不味かったなあ」、ともに愚痴りながら宿へ戻ってベッドで横になった。
翌日起床するとCさんはすでに出発したらしく姿が見えない。しかしその素早さに感心ばかりはしておられず、すぐに食堂へ行って太腿の傷を手入れしなければならなかった。どこでやられたのか定かではないのだが、両腿に十数箇所虫刺されの跡があり、そのいくつかが膿みを持ち始めていた。ガーゼと消毒薬を手に食堂の隅の椅子に坐って針で突こうとしたら、隣に腰をおろした若い女性が「ナースです」と言って傷口を見てくれた。「ここじゃだめですよ」と宿の人に叱られて、出発の準備に大童の大部屋の一角へ行き、ナースが持参の抗生物質を塗り、バンドエイドを貼って「応急措置ですから早く医者に見せたほうがいい」と言う。「道中で病院を探します、ありがとう」と礼を述べて朝食をとり、ようやく8時に宿を出たが、外は薄曇、気温4.5度、4月も下旬なのに吐く息が白い。しかしお陰で足の方はあまり気にせずに歩けそうである。
-ありがたや女人の恵み慈悲心西も東も変はらざりけり-
第18日目のレオンの朝、足の応急治療を終えて、ベルネスガ川に架かる橋を渡り旧市街を出て少し行くと、線路を越えてゆるやかな上り坂になり、その先は放牧地や畑の広がる国道沿いの緩やかな起伏がずっと続いた。この日の距離は34Km。残り250Kmでちょうど全行程の2/3を過ぎた辺りだ。
歩き続けて8時間余、村の入口に架かる長い石橋を渡って、オス
ピタル・デ・オルビゴの宿に16時半到着。村中を貫く巡礼路に面した平屋で中庭が広い。玄関横の薄暗い部屋に入ってしばらく待つと、黒縁の眼鏡をかけた女学生風の小柄な東洋人の女性(コリアン)が現れて受付の手続をすました。「虫に刺されたので医者にかかりたい」と言うと、「生憎この村にはいないがアストルガにAmbulatorio(診療所)があるので見てもらえるでしょう」と、所在地を書いたメモをくれ、「この部屋は人が多いので、こちらへどうぞ」と隣の自分のベッドのある部屋へ案内してくれた。奥の方で女性が一人背を丸めて眠っていたので、音をたてないように荷物を降ろし、スーパーへ行って食料を買い込み、食堂で夕食をとった。モンペリエから来たフランス人夫妻、カナダのケベックからの男性、イスラエルからの若者らが食事を終えて出ていったあと、やって来た若い女性の3人組と挨拶を交わすと、朝方レオンの宿で手当てしてくれたナースとその仲間だった。「明日医者に見てもらえそうです」 「それはよかった。私はポーランド人で、ワルシャワに住んでいる。父はyouと同い年」と言う。ひととき歓談して部屋へ戻るとみんなもう寝息をたてていた。
翌朝6時半、音をたてないように荷物を整え、7時50分出発。小雨がぱらついているが風はない。小高い丘へと登って行き、その先はアップダウンのあるかなりきつい道が続いた。2時間余でコロンバ山の石の十字架を過ぎると眼下にはアストルガの街が広がっていた。
-女医さんが虫に代はりて「ごめんなさい」-歩き続けて8時間余、村の入口に架かる長い石橋を渡って、オス
オスピタル・デ・オルピコ村の長い石橋
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翌朝6時半、音をたてないように荷物を整え、7時50分出発。小雨がぱらついているが風はない。小高い丘へと登って行き、その先はアップダウンのあるかなりきつい道が続いた。2時間余でコロンバ山の石の十字架を過ぎると眼下にはアストルガの街が広がっていた。
「アンビュラトリオ?」と通りすがりの人に何度も尋ねながらアストルガの街中へ続く坂道を登り、城壁の裏側の大通りへ出て少し行くと二階建ての診療所が見えた。受付で白衣の女性に事情を話すと、パスポートの提示を求められ、出された書類に記入、サインして診察室の前の長椅子に坐って順番を待つこと2時間余、診察室へ呼び入れられた。ドクターは若い女医さんで、両太もも10数ヶ所の刺し跡を見せて「宿舎で虫に刺された」と言うと、きゅっと眉を顰めて「sorry」、消毒薬を塗って「薬局で薬を買って塗るように」と処方箋を書いてくれた。その薬は日本で開発されたものと言う。診察を終えて受付へ行くと、先ほどの白衣の女性が笑顔で立ち上がり、「料金はいくら?」と尋ねると「とんでもない」という表情で手を左右に振った。「Muchas Gracias!」「Buen Camino!」。巡礼者の診察は無料と聞いていたとおりだった。
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| 城壁の向うに見えるガウディ司教館 |
道を挟んでほぼ向かい合っている2軒の宿屋はいずれも私営。最初に入った方で料金を聞いてから出て行こうとすると、受付の若い男が突如怖い形相になって睨みつけてくる。それで慌てて向かいの方へ飛び込んだのだが、料金はこちらも同じで6¢だった。巡礼者は10人ほど、夕食は食堂でデンマーク人N、英国南西端コンウォールから来た英国人の男と一緒にとった。Nは家具メーカーのデニスに勤めていて最近リタイアしたばかり、親戚に外交官がいると盛んに言う。英国人は<Eden Project>というのに携わっているとのこと。これはコンウォールにある観光植物園のことらしい。ワインを傾けながら長々と3人で歓談のあと、部屋に戻り「早く治れよ」と薬を傷口にしっかり塗り込んで、22時就寝。明日は標高1530mのイラゴ峠が待っている。
旅20日目の朝、出発から2時間半、ラバナルの村を過ぎると長くて急な登りの道が始まった。今日越える標高1530mイラゴ峠は道中三つ目の難所、大きなごろた石を踏んで登って行く。1時間半で麓のフォンセバドンに着いて昼食。この村は廃村だったが、近年、巡礼者のために宿やバルが建てられ休息の場となっている。登りで乱れた息を十分整えてさらに峠へ
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鉄の十字架」の傍らに立つ
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向かったが、途中で道を見失ってしまい、一旦村の近くまで戻ったところで昨夜宿で一緒だったデンマーク人Nとばったり。本道を見つけて貰って1時間余りで峠に着いた。積み上げられた小石の上に伸びる高さ10m余の「鉄の十字架」に手を触れて立つ。石は巡礼者が道中の無事を祈って置いていったもので、大きな塚になっている。
峠からは舗装された緩やかな下りで、山上の広々とした景観を楽しみながら、マンハリンにある掘立小屋のような宿を通り過ぎると、再び石の多い長い坂を杖を頼りに下った。舗装された蛇行する州道と石の多い土道とが交互になって巡礼路は続いた。Nとは途中のバルで別れ、モリナセカを目指してさらに一頑張り。アップダウンの続く長い道を休まずに歩き続けて、モリナセカの村に入る7つのアーチを持つ中世の「巡礼者の橋」を渡り、18時半に宿に着いた。歩行距離は35km。村の出口の道脇、畑の中にある白い2階建の扉を開いて、口をきくのも辛いほどフラフラになりながら泊まりの手続きをした。料金7ユーロの設備のよい私営の宿にしては受付の親父は不愛想だった。四国霊場と提携しているようで、日本で作られたらしい霊場巡りの絵入りの暖簾が玄関ロビーのカウンターの上にぶら下がっていた。ロビーから2階へ上がろうとすると、突然日本語で声をかけられ、振り向くと、「Oと言います。日本の方に会えて嬉しいですね」、同年輩の男性の弾んだ声で、「どうです、夕食を一緒に」。疲れ切って足も痛いが、折角声をかけていただいたので承諾した。
部屋に荷物を置き、すぐにシャワーを浴びて洗濯。部屋もシャワー室もゆったりと清潔で気持ちよいが、終日、石を踏んで長時間歩いたせいか足裏が随分痛い。とくに右足に強い痛みがある。一段落したので小雨の降り出す中、一緒に外へ出てまず食料品店へ。レジで店員の若い男が料金をごまかした(間違えた?)ので、抗議するとすぐに訂正したが、初めてのことでびっくり、急に村の印象が悪くなってしまった。レストランでOさんは饒舌だった。原発事故のあったすぐ近くのK市の人で60歳。電機会社を早期退職してこの旅に出たとのこと。宿へ戻り、食堂で日記を書いている間も、そばに坐ってお喋りが続いた。異国の旅では日本人に出会って日本語で喋ると、普段の緊張感が和らいで気持ちが少し昂ぶるように思う。人懐こいOさんも普段以上にお喋りになっているようだ。時間が来てベッドで横になったが、足の痛みが強いので明日からの歩行にいささか不安を覚える。
-芽を吹きて畑に連なる黒枝の聖なる血潮与る夕餉-
翌22日目の朝は曇り空で無風。国道沿いの平坦な道を行くにつれて次第に樹々の緑に覆われ始めた。村を流れる清流には泡が立つ。途中でベルシアノスの宿で顔見知りになったフランス人カップルに出会った。夫君は少し前屈みになってびっこを引いている。細君はいつもどおりの軽快な足取り。「夫は足を痛めたんです・・・このあたりの風景、日本と似ているのでは?」「そっくりですね」。
前日のイラゴ峠越えで痛めてしまった右足の裏を強く踏まないよう気をつけながら宿を出る。旅は21日目、第4コーナーに入った。2時間ほどでポンフェラーダを通過。白壁の建物が並ぶ大きくて立派で美しい街だ。日曜の朝のせいか人影が殆どない。街の中央には城跡があり、赤茶色の城壁の前の石段に腰をおろしボトルの水を飲む。
清流に架かる橋を渡って街はずれへ出るとほぼ平坦な道が続き、小さな集落をいくつか通り抜け、高速道路を越えた先はずっとぶどう畑が続いていて、縫うように道が延びている。空は青く晴れあがって暖かい。
14時少し前にカカベロスを通過。街中には人が大勢繰り出していて、朝方のポンフェラーダとは雰囲気がずいぶん違う。小川にかかる小さな橋を渡って街を出て、足を引きずりながら長い登り坂、ローマ時代の道を進む。午後の日差しがいっぱいに照りつけてかなり汗ばむ。次の小さな村ピエロスの宿に立ち寄ると、黒い丸ぶち眼鏡の小柄な若い日本人女性がテーブルに独り坐って即席ドリアを食べていた。ひと月前にピレネーの麓を発ったと言うからのんびり旅だ。「お元気で」とエールをもらって気力を奮う。
16時半、ビジャフランカ・デル・ビエルソに到着、教会横の私営の宿に入った(泊5€、朝夕食7€)。この村のサンティアゴ教会は12~13世紀に造られたもので、病などで歩けなくなった巡礼者に聖地サンティアゴと同様の巡礼証明がここで与えられたという。今でも医師の診断書があればOKらしい。夕食の時間には30人ほどが広間に集り、出された料理をみんなで取り分け、おしゃべりしたり記念写真を撮る。こういう会食は巡礼者の交流を促し心が安らぐ。食後、ベッドに戻って足の裏に筋肉痛を抑える薬液を塗り入念に揉み解す。だが痛みは一向に治まらない。
村を流れる清流に泡が立つ
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-峠越えガリシアへ下り行く道の木々の濃き色故里想ふ-
先を行くフランス人カップルに遅れて歩くこと2時間余、痛む足の養生と翌日のセブレイロ峠越えに備えて昼過ぎに山間の村ベガ・デ・バルカルセで早めに宿に入った。村に2軒ある食料雑貨店でワインと食材を買い込み、宿の屋外キッチンでパスタの大盛りを作って例のフランス人カップルにもすすめたが、手持ちの即席ドリアを口にするだけでワインも飲まず質素なもの。食後、お互い痛めた足を電気ストーブの前に並べて3人で雑談、夫君は世界一の化粧品会社ロレアルのOBで水の研究をしていたと言い、ボルドーに近いベルジュラックに別荘を持っていて、年金は300万円余、「日本へ旅行したいが物価が高いらしいのでね・・・」、そのBという姓の前にはdeという貴族を示す文字があった。
先を行くフランス人カップルに遅れて歩くこと2時間余、痛む足の養生と翌日のセブレイロ峠越えに備えて昼過ぎに山間の村ベガ・デ・バルカルセで早めに宿に入った。村に2軒ある食料雑貨店でワインと食材を買い込み、宿の屋外キッチンでパスタの大盛りを作って例のフランス人カップルにもすすめたが、手持ちの即席ドリアを口にするだけでワインも飲まず質素なもの。食後、お互い痛めた足を電気ストーブの前に並べて3人で雑談、夫君は世界一の化粧品会社ロレアルのOBで水の研究をしていたと言い、ボルドーに近いベルジュラックに別荘を持っていて、年金は300万円余、「日本へ旅行したいが物価が高いらしいのでね・・・」、そのBという姓の前にはdeという貴族を示す文字があった。
翌朝、「先に出ますよ」と声をかけると、昨夜は「自転車グループの若者たちがうるさくてよく眠れなかったわ」と細君がぼやいた。
セブレイロ峠は海抜1300メートル、巡礼路最後の難所と言われ、ここを越えるといよいよ目的地の緑濃きガリシア州に入る。残雪が残る道を4時間半ひたすら登り続けてやがて峠にある9世紀に建てられた巡礼路最古の教会に着いた。神父さん自らスタンプを捺して下さり、拝観して外に出るとピクニックに来たらしい若者たちの群れが周りのショップにできていた。バルで休んでビールを飲んでいると、スペイン人の青年が二人、声をかけてきたので話してみると、ブルゴスで出
セブレイロ峠は海抜1300メートル、巡礼路最後の難所と言われ、ここを越えるといよいよ目的地の緑濃きガリシア州に入る。残雪が残る道を4時間半ひたすら登り続けてやがて峠にある9世紀に建てられた巡礼路最古の教会に着いた。神父さん自らスタンプを捺して下さり、拝観して外に出るとピクニックに来たらしい若者たちの群れが周りのショップにできていた。バルで休んでビールを飲んでいると、スペイン人の青年が二人、声をかけてきたので話してみると、ブルゴスで出
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| <巡礼者の像>の傍に立つ |
会った日本人女性Kさんのことを「僕の恋人」と大のお気に入りである。適当に話を合わせて失敬し、木々に深く覆われた山道を下った。
サン・ロケ峠では「巡礼者の像」の横でポーズをとり、その先は息が切れそうなきつい傾斜や牛の糞の散らばる所もあって往生しつつ、痛む足をびっこひきひき杖を頼りに歩き続けた。朝から32キロ、18時前にトリアカステラの宿に着いた時はもうフラフラで受付で腰を下ろしてしばらくは声が出ないほどだった。それでも小雨まじりの夕闇を縫って村中のレストランへ出かけ、特大のビーフステーキを頬張って何とか峠越えを果たした記念の乾杯を静かに独りであげた。「お疲れさん、ここまで来ればもう大丈夫!」
-病む足にぬかるみ優し木の芽雨-
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| 巡礼路を牛の群れが大行進 |
洗濯し、シャワーを浴びて、一眠りしたあと、修道院の近くを散歩、スーパーで食材を買い、地下の穴倉のような部屋でワインの栓を開けて独りで夕食をとった。この夜は床暖房のおかげで暖かく、ぐっすりと眠れた。
翌朝、床に置いておいた朝食のバゲットサンドは暖房に温められて、ホットドッグになっていた。さて、サリアからサンティアゴまでは114km。最短で巡礼証明書がもらえるスタート地としてここを選ぶ人も多い。出発後2時間ほどして雨が降り始めたのでポンチョを被り、濃い緑の樹々に包まれた細い山道を行く。曲がりくねった急な下り坂になると、痛む足には特にきついが、雨でぬかるんでいると土が柔らかくなるのでかえって楽だ。右足に体重がかからないよう着地点を慎重に選んで歩く。
16時、街の下を流れるミーニョ川に架かる長い橋を渡ってポルトマリンに到着。殆ど口もきけないほど疲れきっていたので、ベッドに荷物を置くとそのまま倒れこんでしまった。それでも小1時間ほどたって少し元気が戻ったので、近くのスーパーで食材を買い込み、夕食をこしらえた。メニューは貝とトマトとピーマンのスープ、サラミ、バゲット、ヨーグルト、ビール。皿や包丁など調理器具が不十分で少々やりづらかったが、すべて平らげて満腹になった。体はぐったりだが食欲はしっかりだ。
次の日は足の具合もだいぶよくなり、林間の道を抜けたあと、突然の雨でずぶ濡れになりながら、15時にはパラス・デ・レイの宿に着いた。しかし、疲れはひどく、一眠りした後も、人と話をするのがおっくうで、談話室のヒーターの傍で冷えた体を暖めながら、黙って簡単な夕食を済ましたあと、すぐベッドに潜り込んで眠り込んだ。
-茹蛸にオリーブオイル唐辛子メリデ名物食ひて愉し-
27日目を迎えた。今朝も小雨がぱらついている。パラス・デ・レイの宿を6時45分に出発。ゴール
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| メリデ名物蛸料理 |
この街の有名な名物料理は、オリーブオイルと唐辛子をかけた茹蛸。早速注文して一皿平らげたが、さほど恐れ入る味ではない。蛸酢の方が口に合う。名無しのワインを1本飲み干したが、全然酔わないのが不思議だ。パンもついて料金はセットで10€。食後、雨上がりの街中へ出て、さらに先へ急いだ。
次の村ボエンテまで道はまっすぐで、村を抜け川を越えさらに登り坂を進んで行く。このあたりまで来ると松林がかなり眼につくようになる。カスタニエダの近くで道脇の小さな教会に参拝。ガリシア州に入ると民家かと紛うような小さな教会が処々に見られる。
17時半、アルスアの宿(泊5€)に到着。スーパーで食材を買って簡単な食事を終えるとすぐにベッドで横になった。今朝辺りから風邪気味で、咳が出て疲れ方が今までになく激しい。シュラフに包まって目を瞑るが、周りの巡礼者たちの声が耳に響いてなかなか眠ることができない。すぐそばで老若女性二人のおしゃべりが延々と続いているのにとうとう辛抱できなくなって、怒鳴りつけてしまった。
「ここは休むところだ。話は別の部屋でやってくれ!」
「You are tired? Sorry...」
二人とも黙ってしまったので、なんとも後味が悪かった。
就寝時刻になってようやく静かになり、やっと眠りに落ちたが、夜半には部屋の隅から聞こえてくる大きな鼾で何度も眠りを覚まされた。
-聖地着双六かくて振り出しへ-
7時半出発。曇り空。疲れが残っている。少し歩いてはリュックを降ろして肩の痛みをほぐす。今日で最後と、杖を頼りに歩き続ける。緩やかなアップダウンを繰り返しながら、緑豊かな林間の道を進み、小さな村を次々と通り過ぎた。昼は道端に腰を下ろして、ビスケットと水だけで済ます。
午後に入ると、ガリシア州に入って以来初めて晴れ間が広がってきた。汗ばむが、とにかく前進あるのみ。ラバコージャの飛行場を横に見て村中を通り過ぎ、ユーカリと松の林の中を一目散に進む。サン・マルコスの村を抜けると、巡礼路最大の宿泊地モンテ・ド・ゴソの丘に到る長い登り坂が続いた。17時半、モンテ・ド・ゴソに到着。眼下にサンティアゴの街が広がっている。聖地を目の前にして、急遽、今夜ここで泊の予定を変更しそのまま目的地へ向かう坂を下った。
30分ほどで市街地に入り、大聖堂を目指して大通りを行く。建物が混み合い、次第に道が狭くなって街の中心へ向かって行く。肩の痛みが強くなってきた。後ろに組んだ両手をリュックの底にあてて持ちあげ、少し前屈みになって歩く。もうあと僅かだ。路上のホタテマークを見落とさないよう要注意。顔見知りの巡礼者の姿が見えた。手を振っている。商店に囲まれた緩やかな坂道に入った。もう間もなくゴール。大聖堂の裏手の広場キンタナ広場が目の前に見えてきた。おや、微笑みながら、こちらへ向かってくる男がいる。あれは確かピレネ越えの時に一緒だったスロバキア人Mだ。「やあ、M!」と握手して奇遇を喜び合い、並んで大聖堂の正面のオブラドイロ広場へ向かう。Mは昨日到着、ちょうどこのあたりを散策していたところだという。
19時10分、サンティアゴ大聖堂の正面にゴールイン。ついに目的の場所に着いた。
通りすがりの人に大聖堂をバックにして二人並んだ記念写真のシャッターを切ってもらい、それから直ちに巡礼事務所へ行き、スタンプで一杯のクレデンシャルを示して「巡礼証明書」を貰った。旅は終わった。今はとにかく早く休みたい。
このあと、Mと同じ宿に泊まり、風邪で咳き込みながら、翌日は大聖堂でミサに参列、翌々日は大西洋に面した巡礼終着の地フィステーラへバスで日帰り、3日目の朝、ポルトガル方面へバスで南下し、ポルト、コインブラ、リスボン、シントラ、スペインのトレド、マドリッドを10日ほどかけて散策ののち帰路に着いた。
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老生にとって巡礼の旅とは「ただ歩くこと」でありました。28日間、800キロの徒歩の果てにあったものは、信仰でもなく成就でもなく感激でもありませんでした。あったのは「何もなかった」ということだけでした。辿り着いた先にあったのは再び同じ日常の反復であり、「双六はかくてまた振り出しに戻った」のであります。
(おわり)


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巡礼の旅の途中で有った名古屋から来た鉄砲玉の大池です。ブルゴスの丘で一緒に撮った写真を送りたかったので、もし良ければ下記アドレスまで連絡下さい。
返信削除dachiyouer@gmail.com