2013年10月1日火曜日

小西甚一「俳句の世界」レジメ


 小西甚一「俳句の世界」(研究社出版 1981年刊)のレジメを作った。
 今回はその前半部、第1章「俳諧の時代」から第4章「芭蕉」までを掲載する。



      小西甚一「俳句の世界」レジメ(前半)

はじめに

(1)俳諧と俳句
俳諧とは俳諧連歌(連句ともいう)のことで、その第1句を発句という。 

連歌連句の特色
 ①作る者と享受する者が同じグループの人たち(昔の芸術観)
 ②制作または享受するため特殊の訓練が必要

俳句は俳諧と違い上の特色を持たない「開かれた世界」で子規の革新の最重要眼目

(2)雅と俗
芸術とは「永遠」につながりを付けようとする努力で表現を中心とする
 ①「完成」をめざすもの  「雅」 すでに出来上がっているもの  連歌 和歌
 ②「無限」にあこがれるもの「俗」 新しいものへ立ち向かうこと

俳諧は「雅」と「俗」にまたがった表現である
俳句は子規の革新によって「俗」のみとなった

(3)定型と季
俳諧と俳句は「定型」五七五と「季」によってつながっている

俳諧と俳句の中心理念は「叙述しない表現」である その手段が「季語」で日本人の原始心性に根ざす共通不変の感覚をあらわすものである

1 俳諧の時代

1 古い俳諧

(1)連歌と俳諧の差
俳諧は室町中期の宗祇の時には存在した  花匂ふ梅は無双の梢かな 宗祇法師 玉海集1656(明暦2)

連歌  モーニング姿  古典的な感覚から成り立ち雅で安らかである 「水無瀬三吟」
俳諧  浴衣がけの連歌 俗語や漢語を用いて刺激的である 上の句では無双が漢語

(2)連歌師の俳諧
連歌師は庶民出身で「雅」だけにはとどまれず俳諧に向かった(息抜き)

二条良基の連歌集「つくば集」には俳諧の部がある
宗祇の連歌集「新撰つくば集」には俳諧の部がない  俳諧と連歌が別物となった
俳諧集「竹馬狂吟集」の宗祇の序文は1499明応8に書かれ 連歌と同じ構成をとっている 俳諧が独立した

(3)荒木田守武
荒木田守武は伊勢神宮の神官  元日や神代のことも思はるる(元日が漢語)
守武は独吟千句をやった    氷らねど水引きとづる懐紙かな(水引きが俗語 懐紙が漢語兼俗語) 
      (連歌は懐紙に書いて水引で綴じる 水引きとづるは水面をとざす意)

俗語や漢語は俳言(はいごん)と呼ばれた  定徳は「俳諧は俳言を詠みこんだ連歌」と定義した

(4)山崎の宗鑑
宗鑑の発句として確実なものはひとつもない 
宗鑑の功績は「俳諧連歌抄(犬筑波)」(卑俗性大)をまとめたこと 
  折る人の脛に噛みつけ犬ざくら  形式的季語が多い(季感は表現されていない)
  消えにけりこれぞまことの雪仏  言葉のしゃれが中心

2 貞門の人たち

(1)江戸初期の俳壇
寛永ごろから俳壇が活発になった 貞徳が活動したのと印刷術の発達て俳書が盛んに出版された

(2)松永貞徳
  ゆき尽くす江南の春の光かな   連歌的感覚が豊かな傑作
   杜常「華清宮」に拠る 安禄山の乱で玄宗皇帝は楊貴妃と楽しんだ華清宮を捨て蜀江の南へ逃げた
  萎るるは何かあんずの花の色   美しさがなく調子も低い二流品

(3)貞室と季吟
  歌いくさ文武二道の蛙かな 貞室   蛙が喧しいのは歌いくさでも始めたのかという言葉の俳諧  貫之「花になくうぐいす水にすむかはづの声をきけば生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける」(古今集仮名序)に拠る
  年の内に踏みこむ春の日脚かな 季吟   連歌に親しんだものには結構よい味
   古今集巻頭の「年の打ちに春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」に拠る

貞門の俳諧を鑑賞するには傑作「紅梅千句」が必読

(4)松江維舟
  やあしばらく花に対して鐘つくこと   これまでの俳諧とよほど肌の違う軽快な調子   
   能因法師「山里の春のゆふぐれ来てみればいりあひの鐘に花ぞ散りける」(新古今集巻二)に拠る   謡曲「三井寺」の鐘つき場面を想定
  巡礼の棒ばかり行く夏野かな  巡礼の哀れさを棒ばかり行くとしたユーモアと俳諧味
  秋やけさ一足に知る拭ひ縁   足で秋を知るのが俳諧味で感覚が表現されていることが重要(キーン:文学史近世篇上69P参照)
   藤原敏行「秋きぬと眼にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(新古今集巻五)に拠る

維舟の句は生の実感に根ざすものだが連歌的には落第 貞門とは水と油で談林俳諧の芽生えとなる
貞徳に破門された反逆児で門下に池西言水や上島鬼貫がある(頴原退蔵「俳諧史の研究」参照)
「毛吹草」(1645年)を編纂

3 談林の新しみ

(1)西山宗因
宗因は元連歌師で一幽とも西翁ともいい維舟の親友
  花むしろ一見せばやと存じ候   謡曲口調の軽さに特徴あり
  風に乗る川霧かろし高瀬舟
  秋はただ法師姿のゆふべかな
  菜の花や一本咲きし松のもと

談林派は謡曲口調や字余りが多く破調への傾向や舶来語を用いるなど無軌道振りが目立つ 
全盛は延寶年間の10年ほど

(2)井原西鶴
  長持へ春ぞ暮れゆく衣がへ  (「落花集」寛文11年1671)

西鶴は発句より付合に天分があり矢数俳諧で有名 談林派の指導権を争う(野間光辰説)
 1600句独吟  延寶5年(1677) 生玉の本覚寺 
 4000句独吟  延寶8年(1680)  同
 23500句独吟  貞享元年(1684)住吉神社

  世に住まば聞けと師走の砧かな  貧しい女房たちの悲しさをこめた響き 西鶴のわびしい歌声

貞享以降は俳壇全体が閑寂へ向かっていった

(3)貞享期の談林
水田西吟編「俳諧庵櫻」 岡村不ト編「続の原」
  思ひ出てものなつかしき柳かな 才麿  久保田万太郎の世界みたいな情緒 
  笹折りて白魚のたえだえ青し  才麿
  朝顔や少しの間にて美しき   才麿 
このあたりから季語が季節を示すだけの符号ではなく生きた季感を表現するところまで深まってきた

  春もはや山吹白くちさにがし  素堂 
    山吹の花の白っちゃけた色や旬を過ぎたチシャの苦味に暮春の趣を感じたところが俳味豊か
  眼には青葉山時鳥初がつを   素堂
山口素堂は漢学に精通し芭蕉の「虚栗」時代の表現(漢詩調)に影響を与えた 

  牛部屋の昼見る草の蛍かな   言水  可憐な蛍を昼の牛部屋に見つけた池西言水の把握は非凡

(4)上島鬼貫
鬼貫は伊丹の人で維州に師事し談林派を経て「誠の俳諧」を主張した(俳論「独ごと」) 
  冬枯れや平等院の庭の面      頼政最後の場面に拠る
  にょっぽりと秋の空なる冨士の山
  春の日や庭に雀の砂あびて
  秋風の吹きわたりけり人の顔
  水鳥の重たく見えて浮きにけり

(5)小西来山
来山は大阪の人で18歳で宗因から宗匠を免許された
  春風や堤ごしなる牛の声  談林直系のこの人がこの長閑な句を読んだことに時代の動きを見て注目
  白魚やさながら動く水の色

4 芭蕉

芭蕉は寛永21年(1644)に伊賀上野に生まれ本名は宗房といい藤堂良忠に仕えた
芭蕉は生涯を「表現の旅」にさすらった これを4期に区分する

(1)寛文期 寛文3年(20歳)~12年(29歳)
  月ぞしるべ此方へいらせ旅の宿  謡曲「鞍馬天狗」に拠る おとなしい貞門風の洒落

寛文6年に良忠死去し以降芭蕉は仕官しておらず12年まで消息不明 
寛文12年に句合「貝おほい」を編し郷里の天満宮に奉納(談林的な新奇自由さに溢れている)江戸へ出る
  雲と隔つ友かや雁の生き別れ

(2)延寶元年(30歳)~天和4年(41歳)
江戸で就職活動 延寶5年から8年まで日本橋小田原町で借家住まいして小石川の水道工事に従事
延寶8年深川に芭蕉庵を持ち俳諧師として活動したが天和2年火事で焼け出され甲州に移る(天和3年再建)
  天秤や京江戸かけて千代の春 (延寶3年初めて桃青と号す 従来の貞門風に近い) 
  人ごとの口にあるなりした紅葉
  山の姿蚤が茶臼の覆ひかな  (延寶4年 奇抜な見立てでまさに談林 宗因指導の俳諧百韻に参加)
  枯枝に鴉のとまりたるや秋の月(延寶8年 蕉風開眼の句だが画題「寒鴉枯木」の翻訳に過ぎない)
  雪の朝ひとり干鮭を噛み得たり
  芭蕉野分して盥に雨を聴く夜かな(天和元年 風の相手を芭蕉に雨を盥にの詠じ分けは談林の名残)
  櫓の声浪を撃って腸氷る夜や涙 (固い漢詩調 当時の芭蕉は俳諧としての表現に欠かせぬと意識)
  髭風を吹いて暮秋歎ずるは誰が子ぞ(杜甫「白帝城最高楼」終句に拠る 髭風を吹いては倒装法)
  鐘消えて花の香は撞く夕かな  (元禄2年 杜甫「秋与八首」と関連 龍之介「芭蕉雑記」参照)
  霰聴くやこの身はもとの古柏(天和2年 再建後の庵の柏に身をなぞらえ心の底から滲出る深い独語)

(3)貞享元年(41歳)~元禄5年(49歳)
*貞享元年 秋(旧暦8月)「野ざらし紀行」に出る
  野ざらしを心に風の沁む身かな(西行や宗祇に並ぶ俳諧の芸術性の自覚が潜む)
  道の辺の木槿は馬に食はれけり(ありふれたものに深い美しさを感じていく態度は「かるみ」の萌芽 キーン文学史近世篇上142p参照)
  手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜(母の遺髪を手にして やや過剰表現)
  秋風や藪も畑も不破の関     (屈指の名句 秋風の季感が全体を引締める見事さ) 
  曙や白魚しろきこと一寸   (ほの暗い中曙の光で白魚の姿が生動する趣が鮮やか 杜甫「白小」)

 秋から冬を尾張で過ごし「冬の日」5巻(野水荷ケイ杜国重五羽笠ら)が生まれ芸術的な飛躍を遂げる
  海暮れて鴨の声ほのかに白し(景色だけで感情を入れない「描写型」 これまで芭蕉にない表現)
 異種の感覚による把握を共感覚と呼び禅でよく見られフランス象徴詩で多用された

*貞享2年 旧暦2月故郷の伊賀を出て奈良京都熱田木曽路甲州を経て4月末庵へ戻る
  山路来て何やらゆかし菫草 (京から大津への山路で 三冊子参照)
  唐崎の松は花より朧にて  (発句に必要な切れ字がないが眼前の景は規則より大切との態度が重要)
 
 芭蕉の「俗」は連歌と同じ高さを持ちながらしかも連歌では詠まない世界であるー蕉風俳諧理解の鍵
  夏衣いまだ虱を取り尽くさず(俳諧の骨髄の味がする句)

*貞享3年 
  古池や蛙とびこむ水の音 (あたりの景色の描写を消して水音に焦点を集中)
 「描写しないことによって描写する以上に表現」は禅の「不言の言」と共通するー芭蕉俳諧の核心
  (キーン「日本の文学」42p参照)

  よく見れば薺花さく垣根かな (無味平淡につまらぬ雑草への感動と愛情を描いた句 かるみ) 
  五月雨ににほの浮巣を見にゆかん(浮巣を見にゆくことが連歌人の感覚でなく俳諧 三冊子参照)
  瘦せながらわりなき菊の蕾かな(瘦せながらも蕾を持った菊への愛憐の情が細く鋭い ほそみ)

*貞享4年 10月「笈の小文」の旅に出る コースは前回とだいたい似たもので翌年9月10日までに帰庵 
  旅人と我が名よばれん初時雨 (旅の最初の句で時雨は西行や宗祇にも連想が濃い)
  故郷や臍の緒に泣く年の暮れ (伊賀に帰っての句 上五に「故郷や」と置いた表現は見事)

*貞享5年 
  丈六に陽炎たかし石の上 (伊賀の神龍寺に詣でて)
 一丈六尺の大仏の元あった石の台に立つ陽炎の高さだけ言ってあとは叙述しないのが俳句表現の特性

  何の木の花とは知らず匂ひかな (2月4日伊勢参宮の句)
 西行「何ごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」に拠る。心の中の感じを直接持 ち出さずあたりの景色などを透してそれとなく表現する「象徴」の技法は俳諧では芭蕉が最初(和歌で は「玉葉集」参照)

  ほろほろと山吹散るか滝の音 (3月半ばすぎ杜国とともに吉野の花を訪ねる)
 この滝は吉野川の激しい渓流をさす 「か」は詠嘆のおもむき 屈指の名句である

  父母のしきりに恋し雉子の声 (高野山にて)
 「父母のしきりに恋し」と「雉子の声」が融けあって高く美しい叙情が流れる 心情と景趣がともに表 面に出て対立しながらしかも感覚の深層で融合する「配合}の技法 杜甫から学んだらしい(太田青丘 「芭蕉と杜甫」参照)

  若葉して御目の雫拭はばや (唐招提寺で鑑真像を拝して)
  くたびれて宿かるころや藤の花 (八木あたりの宿にて 心身の緩みと藤色との配合の句)
  蛸壺やはかなき夢を夏の月 (4月20日明石にて)

 8月中旬越人とともに「更級紀行」の旅
  身にしみて大根からし秋の風 (からしは大根にも秋風にも浸透するするからさで共感覚の応用例)

 芭蕉は「笈の小文」初頭の俳諧観において俳諧の芸術性を明言し実際の作品においてはっきり示した

*元禄2年 「奥の細道」の旅(3月27日~元禄4年11月)
  陽炎の我が肩にたつ紙衣かな
  草の戸も住みかはる代ぞ雛の家 (芭蕉庵を知人に譲り雛人形が飾られた)

  夏草や兵どもが夢のあと (5月13日平泉にて 杜甫「春望」に拠る) 
 常住対流転という思想性が発句の主題となったのは俳諧史に特筆される 思想をイメイジとしての夏草 に語らせた表現は芭蕉の句が近代西洋文芸のもうひとつ先を17世紀に開発したこと)

  閑かさや岩にしみ入る蝉の声 (出羽の立石寺にて 寺は全山が岩山でその上に松柏が茂っている)
 「配合」と並ぶ発句の表現技法「黄金を打ち延べたるがごとき技法」の代表例 名句中の名句
 イ音の響きが6回使われ特殊な効果を挙げている(キーン文学史近世篇上162p参照) 
 6月3日羽黒山で芭蕉の指導を受けた団司左吉(呂丸)の「聞書七日草」に不易流行説の原形が見える

    荒海や佐渡に横たふ天の河 (7月4日出雲崎にて 日本海の暗さを念頭に)
  石山の石より白し秋の風 (8月5日北枝と二人で那谷寺にて 境内は灰白色の岩ばかり)
 
 9月3日大垣に入り知人たちに歓迎された芭蕉は伊勢参宮のため9月6日船で出発 「奥の細道」筆を置く

  猿も小蓑をほしげなり (9月下旬伊勢より伊賀への山路にて 「猿蓑」巻頭の有名な句)
 「初」はその年のはじめのものを賞玩する感じがあり「お前もこの初時雨をめで蓑でも着て濡れてみた いといった顔だね」という能勢朝次の名解がある
 
 伊賀に帰り11月まで滞在し奈良を経て12月24日に嵯峨の落柿舎に留まりそして膳所で越年正月再び伊賀 に戻り3月にまた膳所に来る

*元禄3年 
  木の下に汁も膾も櫻かな (3月頃 芭蕉「花見の句のかかりを少し心得てかるみをしたり」三冊子)
 かるみとは特定の作調を意識せず子供と同じ無邪気さで対象と溶け合う態度 平明無技巧安らかな作調

 4月上旬から石山寺近くの山中に「幻住庵」に居を持つ 「幻住庵の記」
  まづ頼む椎の木もあり夏木立

 8月に大津の義仲寺の草庵(無名庵 没後ここに葬られた)に移り大津の乙州の宅で年を越す
  病む雁の夜寒に落ちて旅寝かな 
 流寓病臥する芭蕉の感情は句の表に語られていないが語られるよりも深く迫る みごとな象徴 代表句

  寒鮭も空也の痩せも寒の内 (事象対事象の配合であり背後に深い悲痛寂寥の情を潜める象徴の句)
 芭蕉「心の味を言ひとらんと数日腸をしぼる」三冊子

*元禄4年
  梅若菜鞠子の宿のとろろ汁 (乙州の江戸行きを送った句 とろろ汁とはまことに俳味豊か)
  行く春を近江の人と惜しみけり (3月末 近江のいちばん近江らしい感じの中心点をしっかり把握)
 
 4月18日から5月4日まで落柿舎に滞在
  郭公大竹薮を漏る月夜 (嵯峨日記4月20日 あの大竹藪が深閑と更けわたった奥深さと静寂の巨)
  五月雨や色紙へぎたる壁の痕 (落柿舎を発つ前日の句)

 7月に「猿蓑」刊行 9月下旬江戸へ向けて発ち11月1日江戸着 橘町に仮寓をもとめ越年 
 翌5年5月中旬杉風や曽良などの奔走で深川に出来た第3次芭蕉庵へ移る
  名月や門にさしくる潮がしら (第3次芭蕉庵の実景)
  塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 (芭蕉のわびしい心の寒さを見逃してはならない 象徴の手法)
 芭蕉が其角「声嗄れて猿の歯白し峯の月」の人を驚かす趣向とは逆の表現をめざしたことがよく分かる 
(4)元禄6年(50歳)~7年(51歳)
*元禄6年 老いの訪れ 人間的悩み(養子桃印内妻壽貞と娘2人との同居 桃印の死 江戸俳壇との疎隔)
  朝顔や昼は錠おろす門の垣 (この秋門を閉じて来客を謝絶 閉関之説)
  朝顔やこれもまた我が友ならず (いよいよ深い孤独)
  生きながらひとつに凍る海鼠かな (醜い海鼠であるだけに哀憐の情が深く滲む 心の色が強く出る)
  在明も晦日に近し餅の音 (心の寂寥がしみじみ聞こえてくる「かるみ」の代表的名句 楸邨が賞賛)  梅が香にのつと日の出る山路かな (「かるみ」の代表作 卑近平明だけでなく高い美しさに注目)

*元禄7年 
 5月8日最後の旅に出る 
  麦の穂をちからにつかむ別れかな (弟子たちに送られ品川宿を出て籠の中で)
  六月や峯に雲置く嵐山 (6月上旬 把握の新鮮さ感覚の壮大さ声調の緊密さすばらしい句)
  夏の夜や崩れて明けし冷やし物 (「かるみ」の代表作)
 句会を終えた後のしらじらしさと冷やし物の崩れた感じがよく浸透して寸分の隙もない 
 
 6月28日{かるみ」の代表的選集「炭俵」刊行 この作風は弟子たちに定着せず蕉門としては完成しない 
  家は皆杖を白髪に墓参り (7月中旬伊賀に帰り墓参)
  数ならぬ身とな思ひそ魂祭り (江戸より6月2日壽貞死去の報 詰まらぬ身だったと思ってくれるな)
  菊の香や奈良には古き仏たち (9月9日奈良にて 花でなく香だから千年の昔まで心が漂っていく)
 菊の古雅な美しさ仏像の蒼古たる高貴さだけが凝集してくる感じを配合の技法で表現した

  この秋は何で年よる雲に鳥 (9月26日大阪にて 漂泊の寂寥感が微かに響き恐ろしいほどの深み)
 芭蕉「雲に鳥」と把握するまでには腸を裂くほどの苦心をしたー支考「笈日記」
 眼前の実景でなくそのものに潜む一番それらしい在りかたを詰めていった結果の表現 
 何かしらしのびよる死の足音を予感したさびしい諦観まで感じられて神秘的と称すべき傑作

  この道や行くひとなしに秋の暮 (同じ日のおそらく夜分に 芸術家の永遠の孤独から響くつぶやき)
  白菊の目にたてて見る塵もなし (9月27日 伊勢の人斯波一有の妻園女に招かれその挨拶句)
  秋深き隣は何をする人ぞ (29日芝宅での句会へあらかじめ送った句 前日以降体調悪く再び起たず)
 この句には蕉風の特色であるイメイジがなく作調は生のさびしさの極みである

 「かるみ」とは「流行」に根ざすものでいつも前に一足踏み出していくことである 
 それは作者として の「態度」attitudeでありそこから生まれる表現の有様が「作調」toneとなる 
  閑寂に深まってゆく態度から生まれる作調が「さび」
  繊細な感覚で鋭く穿ち入る態度からの作調が「ほそみ」
  情感と従順に融けあってゆく態度からの作調が「しほり」
 しかし態度としての「かるみ」はひとつの境地に足を留めないことだから特定の作調になるとは限らぬ いまだに「かるみ」の意味が決定されないのは作調としての「かるみ」を特定しようとしたからだ
 「秋深き隣は何をする人ぞ」の句はイメイジに依存した技法から踏み出している点で「かるみ」に属する
 だが作調はさびしい時はさびしいと感ずる生の「さびしさ」の極みである 
 人間本来の感じ方に帰ってゆく「流行」は門人に理解されず芭蕉は「この道」を独り行くほかなかった

 10月5日之堂宅から御堂前の花屋仁左衛門方裏座敷に移り支考はじめ弟子たちが集まって看護する
  旅に病んで夢は枯野をかけめぐる (8日呑舟を呼んで)
  清滝や波に散りこむ青松葉 (9日支考を呼んで)
 
 10月10日夕方から危篤 支考に遺言状を3通書かせ自らも1通書く 11日其角と今生の対面 
 10月12日午後永眠 享年51歳 遺言により義仲寺に葬る
 
 芭蕉は生きた俳諧史であり俳諧表現の主要な問題は殆ど芭蕉に尽きる 
 残した問題も少しあるがそれを解決したのは蕪村であり芭蕉に較べるといくらか小型である 
                          
  <以下、後半に続く>                                        

                                            (2013年10月1日掲載)

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