2013年9月21日土曜日
「岩波講座 能・狂言」
2008年に法政大学能楽研究所の主催で行われた「表章が語る能楽研究の百年」の講演ビデオを<you tube>で見た。表氏が主導してきた戦後の能楽研究,とくに能の歴史的研究を中心に、江戸時代から今日に到る能楽研究のあらましを語った3回シリーズ、計5時間ほどの講演である。
表氏の熱を帯びた語り口に引き込まれて聴いていくうちに、能がその発祥の時期から、観阿弥・世阿弥による大成を経て、どのようにして今日のような上演形式に到ったのか、その過程を明らかにすることが能楽研究の本体である、という氏の言葉の重みが伝わってきた。表氏はもともと、なぜ今日のような、おかしな(!)演じ方を能がするのか、という疑問から出発したという。この<おかしな>という形容詞には非常に共感を覚えるものがある。かく言う氏の研究が歴史に向かうのは必然であった。その研究の内容をより詳しく知るために、氏が編者の一人としてまとめられた本講座をきちんと読む必要があると思った。
1987年に刊行された岩波書店発行の「岩波講座 能・狂言」全7巻・別巻1は、これまで謡会や能鑑賞の機会に関係するところのページをめくって読むことはあっても、全体を通読することはなかったので、今回は全巻を丁寧に通読しようと思い、第1巻「能楽の歴史」から始めている。読後、どのような果実がえられるか、楽しみにしながら読んでいきたい。
(2013年9月21日記)
2013年9月20日金曜日
復本一郎「芭蕉歳時記」を読む
副題は「竪題季語はかく味わうべし」となっていて、芭蕉の俳句から六十の竪題季語を選び、その本意を明らかにして、それに連なる和歌、連歌、初期俳諧、芭蕉句を並べた歳時記である。
本書の内容については、著者のあとがきに余すことなく説明されているので、全文を以下に引用する。
俳人といわれる方々とお付きあいしていて、少々気になることがある。季語の扱い方が、あまりにも無造作なのである。
俳句には季語を入れて詠まなければならない ― 多くの俳人の方々は、こう主張される。これはいい。ただ、私が気になるのは、季語は、単に季節を表すのみの言葉であるという、この理解である。というのも季語は、季節を表すためだけに五・七・五の十七文字の中に置かれるわけではないからである。季語には、豊穣なイメージがまつわっている。特に和歌以来用いられている伝統的季語(季題)には、それが顕著である。それゆえに、季語の持っている美的イメージを十分に活用するならば、十七文字という小さな小さな詩形で、思いもよらぬ沢山のことを語りうるのである。
和歌以来の伝統的な季語を芭蕉の時代には、竪題(たてだい)と呼んだ。当時、季節の言葉は、季語ではなく、季題と呼ばれていたので、竪題との呼称が用いられたのである。対して、俳諧で用いられるようになった季語が横題である。横題にも、時代とともに蓄積された美的イメージが包含されているが、その豊かさは、竪題には及ぶべくもない。
その和歌以来の美的、伝統的竪題の中で、今日なお季語として用いられているものも少なくない。私は、それを「竪題季語」と呼んでみた。
「竪題季語」の中で、芭蕉俳句とのかかわりにおいて特に重要と思われるもの六十季語を選んで、季語にまつわる美的イメージを明らかにしたのが、本書である。この、季語にまつわる美的イメージは「本意」と呼ばれる。俳人(実作者)も、俳句の読者も、「本意」をきちんと理解することによって、俳句という小さな器を用いての交信をスムーズにおこなうことができるのである。実作者は季語に美的イメージを託して作品(俳句)を作り、読者も、また、、作られた作品(俳句)から的確に美的イメージを受信、把握する。その瞬間、十七文字の小さな、小さな世界は、無限の拡がりを獲得する。ということなのである。
本書は、六十語という限定された「竪題季語」の歳時記ではあるが、俳句を作るにあたっても、俳句を読むに際しても、必須の歳時記になったと自負している。ベテランの俳人の方々も、昨日、今日俳句をはじめられた方々も、そして俳句を読むことがただ好きだという方々も、本書によってぜひ、「竪題季語」の持っている伝統的、美的イメージをしっかり理解していただきたい。
従来の歳時記は、あくまで俳諧、俳句の世界の資料の中にに限って作られていたので、「本意」の記述が十分でなかったのである。私は、本書において、芭蕉と同時代の歌人有賀長伯の歌書の仲に「本意」の記述を求め、それを原文で提示するという方法を用いた。「本意」の諸相が手に取るように理解いただけるかと思う。そして、その「本意」が作品の上にいかに有効にも用いられ、形象化されているかを、俳諧、俳句作品のみならず、和歌や連歌においても具体的な作品を通して検証してみた。
ジャンル(分野)を超えることによって、「本意」の有効性と限界の二つながらを明らかにしえたのではないかと思う。この「本意」の有効性と限界の間で悩み、そして、それをしばしば見事に超克してみせたのが、近・現代俳句のルーツに位置する芭蕉である。その様相を芭蕉の六十句で、かなり詳しく検証してみたつもりである。ぜひ、実作と鑑賞の参考にしていただきたい。
<竪題季語六十>
春 立春 鶯 梅 柳 春雨 雉子 雲雀 花 遊糸かげろう 菫菜すみれつみ 蛙かわず 躑躅 杜若 山吹 藤 暮春
夏 更衣ころもがえ 卯花 郭公ほととぎす 早苗 菖蒲あやめ 樗おうちち
五月雨 水鶏くいな 瞿麦なでしこ 蛍 夕顔 蓮はちす 蝉 扇 泉
納涼どうりょう
秋 残暑のこるあつさ 七夕 荻 萩 薄 女郎花 葛 露 野分 蛬きりぎりす 鹿 雁 霧 月 菊 紅葉
冬 時雨 落葉 枯野 霜 氷 千鳥 水鳥 霰 雪 網代 埋火 歳暮としのくれ
復本一郎「芭蕉歳時記」 講談社 1997年刊
(2013年9月20日記)
2013年9月19日木曜日
野口武彦「蜀山残雨」を読む
本書は江戸時代の幕臣で狂歌師として知られる大田直次郎(南畝、蜀山人)の評伝である。
表題「蜀山残雨」の残雨とはどのような意なのだろうか。蜀山人についてなお語り残されている事柄、という意であろうか。この表題には著者の屈折した思いが秘められているようである。
著者は1970年に「大田南畝の「転向」」という論文を発表して、寛政改革を受けて、一時は自らの青春をかけた戯作から離れ、「正体を人眼にさらさず」「稀代の韜晦の名人」と南畝を評した。これは石川淳の「一番いいところは内証にしておき、二番目の才能で花を撒き散らし、地上の塵の中でぬけぬけと遊んでゐられたのか。花の中に作者の正体がみえない」という評に呼応して書かれたものであるという。
しかし、この論文にたいする当時の学会の評価はかんばしいものではなかったらしく、「これしきの文字を並べるのに自己の青春を賭けるものがいるものか、馬鹿も休み休み・・・」、と言われた著者は、「今後一生バカなことを言い続けようと決意した」。
そして、そのバカなことを、休み休み・・・言えと言った学者たちによって後日まとめられた「南畝全集」を紐解きながら、宿題を果たすようにして30年後に書き上げたのが本書である。
南畝という人間の正体を極めんとして、南畝全集はもちろん、その編纂に当たった中野三敏、日野龍夫、揖斐高、明治大正の鶴見吐香、永井荷風、伝記を書いた浜田義一郎、玉林晴朗、後続の宮崎修多、池澤一郎などの仕事を援用しつつ、「公的生活と精神内面、名声と匿名性、素顔と仮面、詩と学芸、近世性と近代性、権力と文学といった複合物の束」を解きほぐそうと試みる。
著者は上記の南畝の様々なアスペクトを睨みながら、幅広く南畝の生涯と業績を取り上げて333ページの本書をまとめた。これによってまた一つの南畝像に接することができたのはありがたいことである。書の末尾で「果して少しでも解きほぐすことができたであろうか」と著者は問うているが、その問いに答えるのは著者自身が最もふさわしいであろう。
通読して特に面白く感じたのは、浜田氏の伝記では詳しく語られなかった長崎赴任時代のロシアからの通商使節レザーノフをめぐる記述である。当時の幕府の対外政策の現場が幕府、長崎奉行所、使節団それぞれの立場から描かれていて、そのなかで南畝が示す高見の見物という感情移入のない挙動は彼の人物像の一面を示すものとして興味深いものがある。
このことは、文化4年(1807)深川の富岡八幡の祭礼の日に、山車見物に殺到した群衆によって永代橋が崩れ、死者行方不明者二千人に及んだという事件に対して南畝が示した局外者風の態度にも伺えるが、強迫的とも言える南畝の筆録癖とも何かしら縁がありそうである。
また、本書の末尾では文学史の定説を否定して、南畝の随筆は物語性の排除を特色としているが、当時の読み本、人情本、滑稽本に属さず、江戸文学の様式から自由であったことが、南畝の息子定吉を書いた鈴木桃野の「桃野随筆」の物語性に繋がり、幸田露伴へと繋がっていくところに日本の近代小説の系譜を見ている。ここには文芸批評家としての鋭い洞察が示されていると思った。
野口武彦「蜀山残雨」― 大田南畝と江戸文明 新潮社 2003年刊
(2013年9月19日記)
鳥の名はナニ?
今朝、目が覚めると、向かいの公園の木の上から鳥の声が聞こえてきた。
窓から眺めてみたが、姿は見えない。
夏の盛りには鳴りを潜めていたが、涼しくなってまた鳴き始めたようだ。
「ナニナニナニ・・・ナニナニナニ・・・」と断続的に鳴くのである。
ネットで<鳥の鳴き声>を調べてみたが、それらしい鳥の名を見つけることができず、勝手に<ナニナニ鳥>と呼んでいるが、何という名なのだろうか。名前が分かれば鳥の姿も知ることができように・・・
その木の上で鳴いている鳥さんよ、「君の名は? ナニ?ナニ?ナニ?」
なになにと鳴く鳥の名は何鳥屋師(とやし)
(2013年9月19日記)
2013年9月16日月曜日
加藤隆「旧約聖書の誕生」を読む
旧約聖書は読むのに骨が折れる書物である。
モーセ五書で腰が砕けたまま、長い時が過ぎてしまった。
これではならじと、一念発起して再入門を志し、本書を紐解いた次第。
入門者と銘打っているが、430ページの大部なもので、旧約聖書の各書の内容と特徴を多くの引用をまじえて言及している。
著者の言によると、旧約聖書は冒頭から順に読んで行っては理解しにくい書物で、途中で挫折必定らしい。冒頭、そう言われてこれまでの腰砕けが救われた思いがした。
著者はかつてストラスブール大学の学生寮で神学生と勉強会を行った際に、フランス人の男子学生が用いた方法をとる。即ち、古代イスラエル民族の歴史の展開に従って旧約聖書のテキストを選んで順次検討する。この方法で旧約聖書の理解が進み、試験にも合格したという。
出エジプトから始まって、イスラエル統一王国、北王国、南王国、バビロン捕囚.ペルシャ帝国期、ギリシャ・ローマ期と順を追ってテキストの成立事情や内容の解説がある。
王国の南北分裂後、南王国がイスラエルの民族的まとまりを維持したことの意義、バビロン捕囚によるユダヤ教の成立事情、ペルシャ帝国の異民族支配政策とユダヤ教聖書の成立の関連性、ギリシャ語訳がヘブライ語聖書に劣らぬ権威を持った背景にあるギリシャ・ヘレニズムの政治的支配など、著者の見解が各所に述べられている。
あとがきに、本格的に研究するなら、聖書を読むためのヘブライ語、ギリシャ語、研究のため英独仏語の習得を初め、相当の圧力があると言う。そして聖書はそれ自体に価値があるのではなく、神について語るから価値があるのだから、神をないがしろにする聖書中心主義(即ち「学」)よりも、「生」即ち神や人の側を選ぶべき、と入門書らしからぬ警告を発している。
加藤隆「旧約聖書の誕生」 筑摩書房 2008年刊
(2013年9月16日記)
H.S.クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか」を読む
「なぜ私だけがこんなに苦しまねばならないのか」
病気や事故、その他さまざまな不幸に出会って、そう思わない人はないだろう。
<正しい人がなぜ不幸にみまわれ苦しむのか>という問いに対して答えるために、この書は書かれた。
著者はアメリカのマサチューセッツ州に住むラビで、障害のある自分の息子を亡くした体験から、この問いに対する宗教的回答をヨブ記に拠って次のように示している。
健康で通常の生活を送っているときには、ヨブは以下の3命題が正しいと思うだろう。
①神は全能であり、神の意思に反してはなにごとも起こりえない。
②神は正義であり、善き人は栄え、悪き者は処罰される。
③ヨブは正しい人である。
しかし、ヨブに不幸が訪れ財産や家族、健康まで失うと、この3つを同時に正しいと考えるわけにはいかなくなり、どれか一つを否定して、はじめて残り二つを正しいと主張できる。ヨブ記の議論は、どれを切り捨てるか、をめぐる議論である。
著者は、否定すべきは①であること、すなわち神の全能性を切り捨てて、人間界の事象は偶然に起こるものであり、人の不幸に神は関知せず、神に可能なのは、不幸な人に寄り添って慰め力づけることだけだ、と結論する。
そして、人は不幸に襲われたとき、その不幸の拠って来るところを探し求めて神に責めを帰するのではなく、「こうなった以上、これからどう行動するべきか」と考えるべきだという。
かくして、人が心の痛みと悲しみを超えて生き続けていくことができるに到ったとき、それがまさに神の力の賜物あり、この神の立場を人として実践するのが、ラビやホスピス従事者の役割だと考えている。
日本人ならば、おそらくヨブのような神への問いかけにはならないだろうが、自分の運命を嘆き、怒り、悲しむことはヨブと同じだ。そして、神に代えて他者の心と言葉に自恃と慰めを求めるだろう。
かつて家人が病に倒れたとき、両親も兄弟も、家人の家族も、周囲の人々も、私の苦しさや悲しさ、怒りを分かち持ってくれたと感じたことはなかったが(私が語らなかったせいもあるが・・・)、ただひとり、病気を見つけた医師が「これからたいへんだろうだけど、気持ちをしっかり持って」と言ってくれた。その医師の表情とことばが今も眼と耳にはっきり残っている。
訳者の斉藤武氏は、心のケアを大切に考える多くの人に読まれることを願っている。
H.S.クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか」 斉藤武 訳 岩波同時代ライブラリ349 1998年刊
(2013年9月16日記)
2013年9月14日土曜日
2013年9月13日金曜日
大田南畝「壬戌紀行」を読む
大田南畝(蜀山人)は享和元年(1801)2月から翌2年3月まで、幕府の支配勘定として大阪銅座に単身赴任勤務した。この紀行文はその任を終えて江戸へ帰る旅を記録したものである。題名は享和元年の干支が壬戌であることによる。因みに蜀山人という号は銅を意味する蜀山によるもので、この紀行文は「蜀山人著」と記されている。
南畝はこの時51歳。大阪南本町5丁目の「市中なれどもすこしさしいりたる所にて、四間五間ある」宿舎で1年余の上方暮らしを楽しんだのち、3月21日に宿舎を発ち、本町から船に乗って雨の中を淀川へ出て、京へのぼり、上田秋成と対面したあと、琵琶湖岸を経て、関が原を越え、中山道へ入って諏訪を通り、浅間山の傍らを過ぎ、熊谷、蕨を経て、4月7日に江戸に帰着した。16日間の旅であった。
南畝は赴任先や旅行の出来事を事細かく記録する「細推物理(校注者揖斐高氏の言)」な面を持った人といわれる。この紀行文でもその特徴は遺憾なく発揮されていて、例えば次の通り。
「・・・野上村を過れば、右のかたに「南宮へ近道八町」といへる石表あり。左右とも林なり。左に稲荷の小社あり。小流をわたりて垂井の駅に入る。右のほうに小社あり、左に寺あり。右に石の鳥居たてり。ここよりも南宮の山へ八町ありといふ。駅中に、「関孫六兼元出店」といへる札かけし家あり。あい川をわたる。土橋四つばかり所々にかけわたしたり。これを垂井川なりといふ。・・・」
と、まあこんな具合に延々と沿道の情景をこと細かく描写していく。
ここで思うのは、これだけの記録を南畝はいつどこで、どのような筆記具と用紙を使って書いたのだろうかと言うことである。この紀行文に書かれているところによると、道中、少しは歩くこともあったものの、殆ど「輿」に乗っていたようなので、その中で揺られながらメモを録ったのか。鉛筆やメモ用紙のない時代だから、小筆と墨で和紙に書いたのだろうけれど、記録が精細なところを見ると、宿に着いてから思い起こして書いたとも思われず、その場で逐一メモしたのであろう。宿ではそれを整理する程度ではなかったか。そして江戸へ戻ってから全体をまとめて清書したのだろう。
南畝はこの紀行以外にも、大阪へ赴任した時の往路の道中記「改元紀行」、長崎への公務赴任時の「革令紀行」など多くの紀行文を残しており、いずれも長途の旅をものともせず、克明な記録を残している。現在なら殆どカメラで記録するようなことを、筆で紙に丹念に書き込んでいく。見るもの聞くものを書き込んで倦むことがない。書くことが「快楽」である人でなければとてもできることではない。公務で筆録をとるときでも、彼は忌避することなく淡々と膨大な書類を作成したという。
上機嫌と書くことへの興味が尽きないこの即物的な文章に従って、われわれも南畝の眼でこの旅の景色を眺めて進む。ようやく江戸に着き、無事勤めを果たして我が家に戻り、親類知人と祝杯を交わす南畝の傍らで、われわれもまた快い酔いに全身がやわらかく包み込まれていくのである。
大田南畝「壬戌紀行」岩波新日本古典文学大系84 1993年刊
(2013年9月13日記)
2013年9月12日木曜日
今朝読んだProustの一節
Andrèe étais prête à aimer toutes les créatures, mais à condition d'avoir réussi d'abord à ne pas se les représenter comme triomphantes, et pour cela de les humilier préalblement. Elle ne comprenait pas qu'il fallait aimer même les orgurilleux et vaincre leur orgueil par l'amour et non par un plus puissant orgueil.
<ALBERTINE DISPARUE> CHAPITREⅡ
À la recherche du temps perdu(Quqrto Gallimard)page2059
アンドレはすべての人を愛そうとする気持ちはあるのだが、そのためには、まずその人を勝利者のよ
うには思い描かないこと、そのためにはあらかじめその人をうまく屈服させられるということが条件にな
っていた。傲慢な人間でも愛さなければならず、その傲慢さに打ち勝つには愛によるべきで、それ
にまさる強い傲慢さによるべきでないということが彼女にはわかっていなかった。
アルベルティーヌへの思いが消え去っていき、「私」は「花咲く乙女たち」のひとり
であるアンドレと親密な仲になる。アンドレはアルベルティーヌの同性愛の相手であったことを「私」に告白するが、そこにアンドレが競争相手であった自分に対して抱いている羨望と憤懣を「私」は感じとる・・・
傲慢さに打ち勝つには愛によるべきで、それにまさる強い傲慢さによるべきでない.....
うむ、思い当たる節がないでもない.
(2013年9月12日記)
夏水仙が咲いた
フランクのヴァイオリンソナタを聴く
わがクラシックベスト3は「カルメン」、「トリスタンとイゾルデ」、そして「フランクのヴァイオリンソナタ」である。
前2曲はオペラなので、器楽曲としてはこのヴァイオリンソナタがベスト。
長い間、ティボーとコルトーが戦前に演奏した古いSPから復刻したCDで、この曲を聴いてきた。ティボーの内向きで渋い音色と、コルトーのゆっくりと引きずるようなポルタメントが実に魅力的で、この曲に溢れている優雅な気品と官能的で秘められた暗い情熱を余すところなく表現した見事な演奏である。ただモノラルの古い録音なので、現代の優れた録音であればどんな音が聴こえてくるか。
毎年、秋近くなるとこの曲を聴いてみたくなるのだが、急に思い立って昨夜、youtubeでこの曲の演奏を探していくつか聴いてみた。そのなかで、これは素晴らしいと感じたのは、イザベル・ファウストの演奏である。スターンやクレメル、レーピンなども同じくアップされているが、これらはどこか違う、という感じがする。
イザベル・ファウストの演奏で、第1楽章冒頭の、貴婦人がゆっくりと階段を登っていくような気配のする音の流れの秘めやかさ、その上昇が頂点に達したときの溢れ出るような音のきらめきを耳にして、これはいいと思った。しなやかで構築性のあるヴァイオリンの音の流れがこの曲の個性を鮮やかに描き出していて、2楽章、3楽章と、ぐんぐんと引きずり込まれていった。アーヴェンハウスのピアノとの掛け合いもよくて、4楽章の弾むような進行も一体感があって素晴らしかった。
イザベル・ファウストは南ドイツ生まれの41歳になる女流で、パガニーニコンクールで優勝、近年その実力が高く評価されている世界屈指のヴァイオリニストとネットで紹介されている。去年、来日して、N響と協演しているが、そのときは聴くことがなかった。思えば残念なことをしたものだ。私の好きなバルトークの演奏もCDで出ていて素晴らしいものらしい。
こうして、また新しい優れた奏者と出会えて、その演奏を楽しめる機会が増えたので、今朝はその嬉しさも一入である。
フランク バイオリン・ソナタ イ長調
バイオリン イザベル・ファウスト
ピアノ ジルケ・アーヴェンハウス 王子ホール(2007年11月12日収録)
(2013年9月12日記)
2013年9月11日水曜日
今朝読んだProustの一節
<Non, Je ne vais pas au théatre, J'ai perdu une amie que j'aimais beaucoup: <J'avais presque les larmes aux yeux en le disant mais pourtant pour la première fois cela me faisait un certain plaisir d'en parler. C'est à partir de ce moment-là que je commencai à ecrire à tout le monde que je venais d'avoir un grand chagrin et à cesser de le ressentir.
<ALBERTINE DISPARUE> CHAPITREⅡ
À la recherche du temps perdu(Quqrto Gallimard)page2048
「いえ、劇場へは行きません。とても愛していた女友達が亡くなったのです」 そう言いながら私の眼には涙が溢れんばかりだった。それでいながら、そのとき初めて、それを話すことに喜びを覚えた。この時から、私は大きな悲しみを味わってきたことを、世に向かって書き始めたのである。そして、その悲しみを感じなくなり始めていた。
恋人のアルベルティーヌが落馬事故で不慮の死を遂げたことから、「私」は亡き恋人への悶々とした回想に苦しみながら過ごしている。そんなある日、ゲルマント公爵夫人にオペラコミック座へ誘われるが、そのとき「私」はこのように答えて、アルベルティーヌが死んだことを語ったのである。
感情は悲しんでいる、しかし、その悲しみを表現することは喜びである。<mais pourtant> という接続詞がなんと絶妙の効果を発揮していることか。
物を書くということは、ある事件、対象、感情の渦中から抜け出て、それを客体視することによって、それを死に至らしめるということだ、と語られているのである。
ここには、作家が物を書くことの原動力がどこにあるかが如実に示されている。作家は語ることの<plaisir>にかくも逃れがたく縛られているようだ。
(2013年9月11日記)
2013年9月10日火曜日
飯田真・中井久夫「天才の精神病理」を読む
今、日本で、その言説に最も信を置いている人は中井久夫氏である。
20年以上も前にふとしたことから中井氏の言説に接して以来、中井氏の専門的著作を除く一般向けの文章は殆ど目を通してきた。そして、読後必ず、「ここに最も信頼するにたる真性の知識人がいる」という確信を抱き、その確信は以後ますます深まるばかりである。その中井氏がどのような関心を持ってそのキャリアをスタートせられたのか、という興味に引かれて本書を開いた。
中井氏は精神分裂病(統合失調症)を専門とする精神科医で、長く大学で治療と研究に当たってこられたが、この著は氏がまだ30代半ばで精神科医としてのキャリアを歩み始めたばかりの頃に書かれた、おそらく最も初期のものである。
もとは中央公論社発行の雑誌「自然」からの依頼によって、共著者の飯田氏と分担して執筆し、相互検討を経てまさに一体の共著としてまとめたと、あとがきに記されている。
この著は、精神病理の4つの圏域として、分裂病圏、躁鬱病圏、神経症圏、てんかん圏をあげ、てんかん圏を除く3圏に属する科学者を2名ずつ、計6名を選びだし、その病蹟と科学研究との関連について明らかにしようとしたものである。分裂病圏ではニュートンとヴィトゲンシュタイン、躁鬱病圏ではダーウィンとボーア、神経症圏ではフロイトとウィーナーが取り上げられている。
科学者の気質があるときは研究に対する強い抑制となり、あるときは創造的成果に結びつく、という事情を科学者の伝記的事実を踏まえて詳細に描き出し、科学者の生涯を貫く精神病理との戦いが優れた科学的成果を生み出していく現場を、愛情と敬意を込めて明らかにしていく。創造性豊かではあるが困難な人生を生きねばならない人間を目の前にして、われわれはその素晴らしさを知り、そして病の力というものに深い感動を覚えるのである。
フロイトを論じて、その末節に次のような言葉が書かれている。
「われわれ精神医学者の内面には多少なりとも心の棘というべき病的な部分があり、この部分がわれわれを動かし精神医学への関心をひき起こし、病める人間の複雑な世界を理解することを可能にさせているのではなかろうか。(中略)患者が治療者の鏡に照らして自己の病理を洞察し病気から脱出するように、治療者も患者の病理を媒介にして自己洞察を深め、患者とともに自己を治療し続けてゆくのが精神医学の優れた臨床家であるようにさえ思える」
中井氏のその後の足跡は、ここに述べられたことを誠実に実践していかれたものであって、多くの著作のなかにこの実践から得られた人間に対する豊かな洞察が展開されていく。その一端に触れて、「最も信頼するにたる真の賢者がいる」という確信は日々いっそう深まるのである。
飯田真・中井久夫「天才の精神病理」 中央公論社 昭和47年刊
(2013年9月10日記)
2013年9月9日月曜日
行方昭夫「モームの「謎」」を読む
図書館から借りてきて読んだ。
平明な文章で、内容もわかりやすく、著者の永年の研究の成果が惜しみなく語られている。
イギリス人の作家、サマセット・モームの作品はどれもとても有名だが、実はあまり読んでいない。「雨・赤毛」「サミングアップ」「月と六ペンス」「アシェンデン」を読んだだけで、「人間の絆」も「お菓子と麦酒」も未読である。
モームはかつて大学受験問題の常連で、前2冊は受験生時代に原文で読んだ。あとの2冊は最近に読んだが、とても面白かった。だから、未読の作品もそのうちに読むつもりの本のリストに入れている。
モームの生い立ち、性格、結婚、離婚、女性観、同性愛、スパイ歴、訪日時のモームの印象、著者とモームの架空インタビューなど、盛りだくさんの「謎」が盛られていて、どれも興味津々である。
なかでも面白かったのは「同性愛」に関する解説で、秘書との関係など初めて詳しく教えてもらった。本人は公言していないけれど、なるほどモームは同性愛者であったと納得させられる内容である。
訪日時に日本の英文学者やモーム愛好家、出版社員などがモームから受けた印象を紹介しているところは、まさに著者がその場に立ち会っていたかのような臨場感に溢れていて、これも劣らず面白かった。基本的にはシャイで人見知りするが、気配りに長けていて、優しい人という評価を得たようだ。
モームの人生観には東洋的諦念に通ずるものがあり、仏教との親和性が認められるという指摘も、なるほどと思った。
モームという人をイギリス人風の距離感で、暖かく、丁寧に、愛情を込めて描いていて、読後、人の内面の広がりというものに改めて目を向ける機会が与えられたように思った。
行方昭夫「モームの「謎」」 岩波現代文庫(オリジナル) 2013年刊
(2013年9月9日記)
2013年9月7日土曜日
孫の誕生日祝
9月3日は今年満6歳になる孫娘の誕生日。父母である息子夫婦は近くに別所帯を持っている。
誕生日のプレゼントには両親と一緒に作って楽しめたらと思い、1000ピースもある大人むきのジグソーパズル(リアルト橋から眺めたヴェニスの風景)を贈った。届いた翌日電話がかかってきて、「ありがとう」と一言だけ。どうやら、自分への贈り物と思えないようで、あまり嬉しくなさそうだった。品物の説明をよく見ると、7才以上とあって、やはり少し難しすぎたのかな、と反省し、息子に「一緒に作ってやってくれ」と頼んだ。
小さな子供が興味を持って楽しめるものは何か、といろいろ考えて選ぶのだが、毎年ちょっとピントはずれの贈り物になってしまう。子供の心の的を真ん中から射止めるのはほんとに難しいものだと今年もまた思ってしまった。
秋の夕ブランコやめて子ら家へ
(2013年9月7日記)
2013年9月3日火曜日
ポスト考
半年ほど前から「チラシ投込み」という
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| ①横にのびてオープンなもの |
この仕事をして思ったのは、ポストにはいろんな形状ものがあり、投函しやすいものもあればそうでないものもあるということだ。
ポストを受け口の位置と形状で分けると次の4種類がある。
①横にのびているもの
②縦にのびているもの
③前面にあるかまぼこ型のもの
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| ①横にのびて蓋があるもの |
最も多いのが、①横にのびているもので、これには口に蓋がついているものとオープンなものとがある。蓋がついているものには、少し力を加えて内側に押開くものと、軽く開くものとがある。外側へ開くものもある。口のサイズには大小あって、A4のチラシは小さい口だと短辺からしか入らない。
次に多いのが、②縦にのびているもので、これはすべて蓋というか扉がついている。扉は内側に開くようになっていて、右開きと左開きがある。
③前面にあるかまぼこ型のものは、前面にある扉を開ける。
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| ②縦にのびているもの |
④上面にあるボックス型のものは、上にある蓋を開ける。
投函するものからすると、一番歓迎するのは、①横にのびて口がオープンなもので、片手で放り込めるし、チラシがすっと底に落ちるので安心感がある。蓋があるものは開くのに一手間かかるので、軽い場合はまだよいが、重いものはすこし面倒である。
②縦にのびているものは、投函する人の利き腕いかんによって左右どちらかが入れにくくなる。またポストの左右どちらに立って入れるかによっても違ってくる。その上、入れたチラシがすっと下に落ちずに立ったまま不安定になるのもよくない。しばしば扉に挟まれてはみ出すことがある。
③前面にあるかまぼこ型のものは、①横にのびて口に蓋のあるもの、と同様の手間がかかる。
④上面にあるボックス型のものは、開口部が広く、上から入れるので入れやすく、
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| ③前面にあるかまぼこ型のもの |
以上をまとめると、受け口の形状による投函しやすさの順番は次の通りとなる。
1 ①横にのびてオープンなもの
2 ④上面にあるボックス型のもの
3 ①横にのびて蓋があるもの
③前面にあるかまぼこ型のもの
4 ②縦にのびて利き腕側にあるもの
5 ②縦にのびて利き腕と反対側にあるもの
また、ポストが家のどの位置にあるかも重要で、道路に面しているかいないか、面していない場合は、どのくらい離れているか、その間は平坦か、階段か。手が届きやすいか、伸ばさないといけないか。周りにフェンスや草木など障害になるものがないか、等によって投函のしやすさは違ってくる。
もちろん受領者にとっては受領物を安全に保管
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| ④上面にあるボックス型のもの |
こうしていろんな形のポストにチラシを配りながら、半ば散歩気分でそれぞれの家の玄関や庭の草木を愛でて回っている。これもなかなか楽しいものである。
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