2013年9月20日金曜日

復本一郎「芭蕉歳時記」を読む


 副題は「竪題季語はかく味わうべし」となっていて、芭蕉の俳句から六十の竪題季語を選び、その本意を明らかにして、それに連なる和歌、連歌、初期俳諧、芭蕉句を並べた歳時記である。

 本書の内容については、著者のあとがきに余すことなく説明されているので、全文を以下に引用する。


 俳人といわれる方々とお付きあいしていて、少々気になることがある。季語の扱い方が、あまりにも無造作なのである。
 俳句には季語を入れて詠まなければならない ― 多くの俳人の方々は、こう主張される。これはいい。ただ、私が気になるのは、季語は、単に季節を表すのみの言葉であるという、この理解である。というのも季語は、季節を表すためだけに五・七・五の十七文字の中に置かれるわけではないからである。季語には、豊穣なイメージがまつわっている。特に和歌以来用いられている伝統的季語(季題)には、それが顕著である。それゆえに、季語の持っている美的イメージを十分に活用するならば、十七文字という小さな小さな詩形で、思いもよらぬ沢山のことを語りうるのである。
 和歌以来の伝統的な季語を芭蕉の時代には、竪題(たてだい)と呼んだ。当時、季節の言葉は、季語ではなく、季題と呼ばれていたので、竪題との呼称が用いられたのである。対して、俳諧で用いられるようになった季語が横題である。横題にも、時代とともに蓄積された美的イメージが包含されているが、その豊かさは、竪題には及ぶべくもない。
 その和歌以来の美的、伝統的竪題の中で、今日なお季語として用いられているものも少なくない。私は、それを「竪題季語」と呼んでみた。
 「竪題季語」の中で、芭蕉俳句とのかかわりにおいて特に重要と思われるもの六十季語を選んで、季語にまつわる美的イメージを明らかにしたのが、本書である。この、季語にまつわる美的イメージは「本意」と呼ばれる。俳人(実作者)も、俳句の読者も、「本意」をきちんと理解することによって、俳句という小さな器を用いての交信をスムーズにおこなうことができるのである。実作者は季語に美的イメージを託して作品(俳句)を作り、読者も、また、、作られた作品(俳句)から的確に美的イメージを受信、把握する。その瞬間、十七文字の小さな、小さな世界は、無限の拡がりを獲得する。ということなのである。
 本書は、六十語という限定された「竪題季語」の歳時記ではあるが、俳句を作るにあたっても、俳句を読むに際しても、必須の歳時記になったと自負している。ベテランの俳人の方々も、昨日、今日俳句をはじめられた方々も、そして俳句を読むことがただ好きだという方々も、本書によってぜひ、「竪題季語」の持っている伝統的、美的イメージをしっかり理解していただきたい。
 従来の歳時記は、あくまで俳諧、俳句の世界の資料の中にに限って作られていたので、「本意」の記述が十分でなかったのである。私は、本書において、芭蕉と同時代の歌人有賀長伯の歌書の仲に「本意」の記述を求め、それを原文で提示するという方法を用いた。「本意」の諸相が手に取るように理解いただけるかと思う。そして、その「本意」が作品の上にいかに有効にも用いられ、形象化されているかを、俳諧、俳句作品のみならず、和歌や連歌においても具体的な作品を通して検証してみた。
 ジャンル(分野)を超えることによって、「本意」の有効性と限界の二つながらを明らかにしえたのではないかと思う。この「本意」の有効性と限界の間で悩み、そして、それをしばしば見事に超克してみせたのが、近・現代俳句のルーツに位置する芭蕉である。その様相を芭蕉の六十句で、かなり詳しく検証してみたつもりである。ぜひ、実作と鑑賞の参考にしていただきたい。
                                                                         
<竪題季語六十>
 
春  立春 鶯 梅 柳 春雨 雉子 雲雀 花 遊糸かげろう 菫菜すみれつみ         蛙かわず 躑躅 杜若 山吹 藤 暮春

夏  更衣ころもがえ 卯花 郭公ほととぎす 早苗 菖蒲あやめ 樗おうちち 
     五月雨 水鶏くいな 瞿麦なでしこ 蛍 夕顔 蓮はちす 蝉 扇 泉 
     納涼どうりょう

秋  残暑のこるあつさ 七夕 荻 萩 薄 女郎花 葛 露 野分 蛬きりぎりす       鹿 雁 霧 月 菊 紅葉

冬  時雨 落葉 枯野 霜 氷 千鳥 水鳥 霰 雪 網代 埋火 歳暮としのくれ


  復本一郎「芭蕉歳時記」 講談社 1997年刊


                     (2013年9月20日記)

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