2013年9月19日木曜日
野口武彦「蜀山残雨」を読む
本書は江戸時代の幕臣で狂歌師として知られる大田直次郎(南畝、蜀山人)の評伝である。
表題「蜀山残雨」の残雨とはどのような意なのだろうか。蜀山人についてなお語り残されている事柄、という意であろうか。この表題には著者の屈折した思いが秘められているようである。
著者は1970年に「大田南畝の「転向」」という論文を発表して、寛政改革を受けて、一時は自らの青春をかけた戯作から離れ、「正体を人眼にさらさず」「稀代の韜晦の名人」と南畝を評した。これは石川淳の「一番いいところは内証にしておき、二番目の才能で花を撒き散らし、地上の塵の中でぬけぬけと遊んでゐられたのか。花の中に作者の正体がみえない」という評に呼応して書かれたものであるという。
しかし、この論文にたいする当時の学会の評価はかんばしいものではなかったらしく、「これしきの文字を並べるのに自己の青春を賭けるものがいるものか、馬鹿も休み休み・・・」、と言われた著者は、「今後一生バカなことを言い続けようと決意した」。
そして、そのバカなことを、休み休み・・・言えと言った学者たちによって後日まとめられた「南畝全集」を紐解きながら、宿題を果たすようにして30年後に書き上げたのが本書である。
南畝という人間の正体を極めんとして、南畝全集はもちろん、その編纂に当たった中野三敏、日野龍夫、揖斐高、明治大正の鶴見吐香、永井荷風、伝記を書いた浜田義一郎、玉林晴朗、後続の宮崎修多、池澤一郎などの仕事を援用しつつ、「公的生活と精神内面、名声と匿名性、素顔と仮面、詩と学芸、近世性と近代性、権力と文学といった複合物の束」を解きほぐそうと試みる。
著者は上記の南畝の様々なアスペクトを睨みながら、幅広く南畝の生涯と業績を取り上げて333ページの本書をまとめた。これによってまた一つの南畝像に接することができたのはありがたいことである。書の末尾で「果して少しでも解きほぐすことができたであろうか」と著者は問うているが、その問いに答えるのは著者自身が最もふさわしいであろう。
通読して特に面白く感じたのは、浜田氏の伝記では詳しく語られなかった長崎赴任時代のロシアからの通商使節レザーノフをめぐる記述である。当時の幕府の対外政策の現場が幕府、長崎奉行所、使節団それぞれの立場から描かれていて、そのなかで南畝が示す高見の見物という感情移入のない挙動は彼の人物像の一面を示すものとして興味深いものがある。
このことは、文化4年(1807)深川の富岡八幡の祭礼の日に、山車見物に殺到した群衆によって永代橋が崩れ、死者行方不明者二千人に及んだという事件に対して南畝が示した局外者風の態度にも伺えるが、強迫的とも言える南畝の筆録癖とも何かしら縁がありそうである。
また、本書の末尾では文学史の定説を否定して、南畝の随筆は物語性の排除を特色としているが、当時の読み本、人情本、滑稽本に属さず、江戸文学の様式から自由であったことが、南畝の息子定吉を書いた鈴木桃野の「桃野随筆」の物語性に繋がり、幸田露伴へと繋がっていくところに日本の近代小説の系譜を見ている。ここには文芸批評家としての鋭い洞察が示されていると思った。
野口武彦「蜀山残雨」― 大田南畝と江戸文明 新潮社 2003年刊
(2013年9月19日記)
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