2013年9月13日金曜日

大田南畝「壬戌紀行」を読む


 大田南畝(蜀山人)は享和元年(1801)2月から翌2年3月まで、幕府の支配勘定として大阪銅座に単身赴任勤務した。この紀行文はその任を終えて江戸へ帰る旅を記録したものである。題名は享和元年の干支が壬戌であることによる。因みに蜀山人という号は銅を意味する蜀山によるもので、この紀行文は「蜀山人著」と記されている。

 南畝はこの時51歳。大阪南本町5丁目の「市中なれどもすこしさしいりたる所にて、四間五間ある」宿舎で1年余の上方暮らしを楽しんだのち、3月21日に宿舎を発ち、本町から船に乗って雨の中を淀川へ出て、京へのぼり、上田秋成と対面したあと、琵琶湖岸を経て、関が原を越え、中山道へ入って諏訪を通り、浅間山の傍らを過ぎ、熊谷、蕨を経て、4月7日に江戸に帰着した。16日間の旅であった。

 南畝は赴任先や旅行の出来事を事細かく記録する「細推物理(校注者揖斐高氏の言)」な面を持った人といわれる。この紀行文でもその特徴は遺憾なく発揮されていて、例えば次の通り。

 「・・・野上村を過れば、右のかたに「南宮へ近道八町」といへる石表あり。左右とも林なり。左に稲荷の小社あり。小流をわたりて垂井の駅に入る。右のほうに小社あり、左に寺あり。右に石の鳥居たてり。ここよりも南宮の山へ八町ありといふ。駅中に、「関孫六兼元出店」といへる札かけし家あり。あい川をわたる。土橋四つばかり所々にかけわたしたり。これを垂井川なりといふ。・・・」
と、まあこんな具合に延々と沿道の情景をこと細かく描写していく。

 ここで思うのは、これだけの記録を南畝はいつどこで、どのような筆記具と用紙を使って書いたのだろうかと言うことである。この紀行文に書かれているところによると、道中、少しは歩くこともあったものの、殆ど「輿」に乗っていたようなので、その中で揺られながらメモを録ったのか。鉛筆やメモ用紙のない時代だから、小筆と墨で和紙に書いたのだろうけれど、記録が精細なところを見ると、宿に着いてから思い起こして書いたとも思われず、その場で逐一メモしたのであろう。宿ではそれを整理する程度ではなかったか。そして江戸へ戻ってから全体をまとめて清書したのだろう。

 南畝はこの紀行以外にも、大阪へ赴任した時の往路の道中記「改元紀行」、長崎への公務赴任時の「革令紀行」など多くの紀行文を残しており、いずれも長途の旅をものともせず、克明な記録を残している。現在なら殆どカメラで記録するようなことを、筆で紙に丹念に書き込んでいく。見るもの聞くものを書き込んで倦むことがない。書くことが「快楽」である人でなければとてもできることではない。公務で筆録をとるときでも、彼は忌避することなく淡々と膨大な書類を作成したという。

 上機嫌と書くことへの興味が尽きないこの即物的な文章に従って、われわれも南畝の眼でこの旅の景色を眺めて進む。ようやく江戸に着き、無事勤めを果たして我が家に戻り、親類知人と祝杯を交わす南畝の傍らで、われわれもまた快い酔いに全身がやわらかく包み込まれていくのである。

  
 大田南畝「壬戌紀行」岩波新日本古典文学大系84 1993年刊                                       
                             (2013年9月13日記)

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