2013年9月16日月曜日

H.S.クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか」を読む


 「なぜ私だけがこんなに苦しまねばならないのか」
 病気や事故、その他さまざまな不幸に出会って、そう思わない人はないだろう。
 <正しい人がなぜ不幸にみまわれ苦しむのか>という問いに対して答えるために、この書は書かれた。
 
 著者はアメリカのマサチューセッツ州に住むラビで、障害のある自分の息子を亡くした体験から、この問いに対する宗教的回答をヨブ記に拠って次のように示している。

 健康で通常の生活を送っているときには、ヨブは以下の3命題が正しいと思うだろう。
   ①神は全能であり、神の意思に反してはなにごとも起こりえない。
   ②神は正義であり、善き人は栄え、悪き者は処罰される。
   ③ヨブは正しい人である。

 しかし、ヨブに不幸が訪れ財産や家族、健康まで失うと、この3つを同時に正しいと考えるわけにはいかなくなり、どれか一つを否定して、はじめて残り二つを正しいと主張できる。ヨブ記の議論は、どれを切り捨てるか、をめぐる議論である。

 著者は、否定すべきは①であること、すなわち神の全能性を切り捨てて、人間界の事象は偶然に起こるものであり、人の不幸に神は関知せず、神に可能なのは、不幸な人に寄り添って慰め力づけることだけだ、と結論する。

  そして、人は不幸に襲われたとき、その不幸の拠って来るところを探し求めて神に責めを帰するのではなく、「こうなった以上、これからどう行動するべきか」と考えるべきだという。

 かくして、人が心の痛みと悲しみを超えて生き続けていくことができるに到ったとき、それがまさに神の力の賜物あり、この神の立場を人として実践するのが、ラビやホスピス従事者の役割だと考えている。
  
 日本人ならば、おそらくヨブのような神への問いかけにはならないだろうが、自分の運命を嘆き、怒り、悲しむことはヨブと同じだ。そして、神に代えて他者の心と言葉に自恃と慰めを求めるだろう。
 

 かつて家人が病に倒れたとき、両親も兄弟も、家人の家族も、周囲の人々も、私の苦しさや悲しさ、怒りを分かち持ってくれたと感じたことはなかったが(私が語らなかったせいもあるが・・・)、ただひとり、病気を見つけた医師が「これからたいへんだろうだけど、気持ちをしっかり持って」と言ってくれた。その医師の表情とことばが今も眼と耳にはっきり残っている。


 訳者の斉藤武氏は、心のケアを大切に考える多くの人に読まれることを願っている。


 H.S.クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか」 斉藤武 訳 岩波同時代ライブラリ349 1998年刊

                        (2013年9月16日記)

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